1959年のキューバ革命の衝撃は、中米ではニカラグア、エルサルバドル、南米ではボリビア、ペルー、コロンビアなどに波及したが、ツパマロスの原点はキューバ革命ではなかった。彼らはヨーロッパの反ナチス・のレジスタンスやアルジェリアの対仏解放戦争にならって、都市を基盤とする抵抗戦を独自に考え出した。

 スラムが広がり、失業者があふれる大都市こそゲリラ戦に適しているという都市ゲリラ理論だ。それに基づいて、活動資金獲得のために銀行や米国系企業を襲撃した。さらに財界要人や外交官の誘拐など、活動をエスカレートさせた。ラジオ局を短時間占拠し、放送を中断させたこともある。

 1960年代後半、暴力的弾圧にもかからず、ストライキは頻発、社会不安が広がり、ゲリラ活動も活発化した。こうした状況に手を焼いたコロラド党政権は、1971年9月、ついに軍に治安問題を任せたのである。

 72年3月、軍・警察は総力をあげてツパマロス弾圧に乗り出した。議会も4月に「内戦状態」を宣言。9月には主なメンバーがほとんど逮捕され、組織は壊滅状態に陥った。そのとき、ムヒカも投獄された。

▽軍政退場を求める民意

 1973年2月、軍は、三軍司令官からなる国家安全保障審議会の設置を認めさせた。軍部の政治介入の制度化だ。6月、ボルダベリ大統領が軍の支持を得て、国会と地方議会を解散し、事実上の軍政のスタートとなった。

 政権はその後、抗議ゼネストをおこなった全国労働者協議会を解散させ、共産党・社会党など多くの団体を非合法化。76年6月、大統領自身も軍によって失脚し、軍部による独裁体制が確立した。

 ツパマロスは、幅広い国民の支持の下に国家権力を奪取し、社会の根本的改革することをめざしていた。しかし彼らがゲリラ活動を激化させればさせるほど、軍部の政治介入を強め、ついに軍部独裁を許す結果となったのである。

 軍部は新自由主義的な経済政策で経済の回復をはかったが、失業者は増加し、多くの国民が国外に逃亡した。1981年、軍部は軍による政治介入の制度的保障を得るために改憲を試み、国民投票を実施した。しかし、国民の過半数はこれを拒絶した。国民投票の結果は、軍にとっては衝撃となった。軍に退場を求める明確な意志を突きつけられ、軍はこれを受け入れ、1985年3月に民政に移管することに同意した。

(脇田和也)