新左翼の総括をめぐる議論が活発になってきた。ルート・フィッシャー著『スターリンとドイツ共産主義』を翻訳した私に本誌から原稿依頼があったのも、そうした機運の現れだと思う。私自身は、その後学習を進めるなかで、ドイツ革命の総括が重要だという気持ちが強まっている。二〇世紀初頭のドイツといえばすでに百年以上前の話になるが、一九一七年のロシアと比べると、当時のドイツははるかに現代日本の社会構成に近似的な特質を備えていたと思うからだ。ロシアで革命が起きたのに、ドイツや日本ではなぜ革命に至らなかったのか—その核心に、労働者階級が多様化しており、必ずしも革命的変革を望む労働者ばかりではないという問題、にも拘わらず「鉄鎖以外に失うもののないプロレタリアートの暴力革命」という社会変革プログラム以外われわれがもちあわせていなかった、という問題が厳然としてある。日本の新左翼と同様、ドイツ共産党もボリシェビキとロシア革命を理想モデルとし、一斉斉武装蜂起を目指したが、労働者の獲得にはいたらず破綻した。ドイツ革命の敗北をたどると、日本の新左翼はドイツ共産党と同じ轍を踏んできたかのようである。ボリシェビキ型社会運動ではない「労働者自己解放運動」という本来の共産主義運動の潮流を復権し、時代が求める変革の道筋を明らかにすることが求められていると思う。
(1) 日本革命にたちはだかる「連合」の壁
本題に入る前に、個人史的な要素もまじえて日本の状況に触れておこう。
ロシアでは一七年七月の段階でボリシェビキが労働者・兵士ソヴィエト多数派の支持を獲得していたのに比べ、日本では労働運動の主流を「体制内労働運動」「労使協調型労働運動」「企業別組合」ががっちりと押さえたまま、資本と労働者の非和解性を強調する「階級的労働運動」がメインストリームになったことはおろか、主要単産を握ったことすら一度もない。連合傘下の主だった労組を革命派が占めるぐらいでなければ日本革命などお話にもならないが、「連合」問題を正面から論じた考察はまだあまり見たことがない。五〇万の組織票を抱える電力総連が「原発反対」の旗を降ろせと立憲民主党に圧力をかけているのを見ると、連合が社会運動にもたらすマイナス面の大きさを痛感する。反動とは言わないが進歩的とも言いがたい日本最大の組織勢力「連合」をなんとかしない限り、日本革命とまで言わずとも何らかの根本的な社会変革は不可能だと思うが、左翼の誰も歯が立たなかった「連合」という存在をわれわれはどう理解すべきだろうか。
筆者自身、非正規雇用労働者として日本を代表する一部上場企業の職場の内実をあちこちで見てきた。たとえば私がかつて勤めた八〇〇人規模の三菱系大工場では、青森や富山、九州など日本全国からかき集められた青年男女三〇〇人が派遣社員として働いていたが、正社員は彼らのことを名前ではなく一律に「そこの派遣さん」と呼んでいた。私はたまたまつきあいで正社員と一緒に飲みに行く機会があったものの、割り勘でスナックをはしごしたため、一ヶ月の小遣い兼活動費にあたる三万円を一晩で蕩尽してしまった。相手にもよるのでこの話を一般化すべきではないかもしれないが、正社員と派遣社員では一緒に飲みにも行けない、生きている世界が違うと痛感した記憶が残っている。その後、リーマンショックで派遣社員の大半が首を切られ、文字通り路頭に放り出された。そのうち何人かは日比谷の年越し派遣村に流れ込んだろうと思う。ポリテクセンターの職業訓練が決まっていた私は間一髪で難を逃れた。
関経連中枢企業のグループ会社では、係長クラスで引退したOBがアルバイトに来ていた。一ヶ月の年金収入が駐車場収入と併せて四〇万円超、お金が使い切れないから毎日職場の後輩を連れて飲み歩き、職場の人々も彼にたかるのを日課としていた。とても気のいい人たちではあったが、こんなお酒を飲んだら堕落すると思い、私は近寄らないようにしていた。
最近の職場では、契約社員だった私の正社員登用がコロナ禍に伴う業績悪化で取り消しとなり、正社員と同じ仕事をしてきたのにあんまり薄情ではないか、と私鉄総連傘下の職場労働組合に救済措置を頼んだ。しかし私の上司兼組合書記長は「掛川さんは組合費を払っていない部外者だから、組合と関係ありません。会社と個人の契約問題なので、嫌ならやめればいいじゃないですか」といって私の依頼を言下に断った。「会社も組合も話を聞いてくれないんじゃ、合同労組に個人加盟して団体交渉を申し入れるしかありませんね」とタンカを切ると、「外部勢力を引き込めば掛川さんの居場所はこの会社にはありませんからね」と恫喝してくる始末。その後私の転職が決まったので争議には至らなかったが、会社を辞める時この上司には挨拶もしなかった。
時給ぽっきりぽっきりの低賃金で結婚もあきらめている契約社員を前に、ボーナスがいくらだ、車はアルファードかセレナか、子供の習い事がどうした、とおしゃべりしている連中を見て、「こいつら地獄に落ちればいい」という気持ちを抑えるのは難しかった。ある時、高卒新入社員の歓迎会に参加するかどうかチェックリストが回ってきたが、非正規社員は全員不参加に○をつけていた。自分が歓迎されていない職場で別の誰かを歓迎する気にならなかった。参加費が組合員五〇〇円、非組合員二五〇〇円という職場親睦会にも非正規は誰も参加しなかった。案内状を見ただけで不愉快な気分になった。
職場ではいつもみじめな気持ちでストレスを抱え、ケガや病気でいつ路頭に放り出されるかと不安にさいなまれる非正規雇用労働者に比べ、正社員はボーナス、退職金、老後の年金、マイホームなど鉄鎖以外に失うものを山ほど抱え、あらゆる変化を嫌い、ひたすら現状維持を望んでいた。危機が来ればまっさきに非正規社員が犠牲になる現実を見るにつけ、〈資本主義の破局的危機が到来すれば労働者は一律に困窮し、団結して革命に立ち上がる〉〈労働貴族の裏切りを暴露すれば労働者は決起する〉という従来の素朴な理解や展望を私は放棄せざるをえなかった。正社員の彼らがすべてを失うまで、いったいあと何世代待たなくてはならないのか。社会変革の道筋として暴力革命だけをプログラム化したことに無理があったのではないか。
こんなふうに書いたからといって、私は年収一千万を超える労働者を敵視しているわけではもちろんない。戦後の「平和と民主主義」の根幹が脅かされていると感じた時、彼らが大挙して立ち上がる姿をこれまで何度も見てきた。かくいう私の友人にも、夫婦併せた世帯収入が一千万を超える人々は少なくない。彼らが特別に特権層だというわけではないし、大半は家族のために汗水垂らして働く普通の労働者である。問題は、「あるべきプロレタリア像」を外から彼らに押し付け、「アジア人民の苦闘がわかっていない」と倫理的に恫喝し、代行主義的に彼らの「階級意識」を捏造してきた革命党の側にあった、と認識している。むしろ、彼らの本当の意志や希望が、果たして連合や国民民主党あるいは立憲民主党によって体現されているのかどうかを問題とすべきだし、この資本主義体制下において連合傘下の労働者とはどういう存在なのかをきちんと認識したうえで、彼らの存在を内包した社会変革プログラムを構想すべきだろうと思うのだ。
ところで、「労働者は革命を望んでいない」「マルクスが想定した資本と賃労働の二極化は現実にそぐわず、労働者は多様化している」と初めて主張し、従来のマルクス主義的世界観の変更を迫ったのが、有名な割には誰も読んだことがないベルンシュタインである。私もつい最近読んでその内容に衝撃を受けた。改良闘争をひたすら実践すればいいという彼の結論に納得はいかないが、「近代的賃金労働者層というものが、『共産党宣言』の予見するような、財産、家族等々に関しては一様になんら束縛をもたない同質的な大衆なのではない…他ならぬ先進的な工場制諸工業において、分化した労働者のみごとな階層制(ヒエラルヒー)が見いだされ、それら諸集団のあいだにはほどほどの連帯感しか存在していない」(『社会主義の諸前提と社会民主主義の任務』)という彼が指摘した現実そのものは、われわれが討論の出発点とすべき内容だったと思う。エンゲルスは楽観的に“同じプロレタリアだという階級的感情以外、組織の規約などは必要ですらない”と書いていたが※、正規・非正規の一触即発の険悪な対立を体感してきた立場からすれば、ベルンシュタインが描いた現実の方が実感と符合する。しかし今日にいたるまでこのテーマがきちんと議論され、平準化されているとは言い難い。一時期、「われわれは九九%だ」というスローガンがもてはやされたが、あれは間違いである。R・ライシュによればアメリカでも年収二千万を超える住民が二割いる。
※「今日では、ドイツのプロレタリアートは、もはや公然のものであろうと秘密のものであろうと、正式の組織を必要としない。いっさいの規約や、委員会や、決議や、その他の目に見える形態なしにでも全ドイツ帝国をゆるがすには、同じ考えを持った階級的同志のあいだの単純で自明な連絡があれば十分である…あらゆる国とことばの労働者のあいだに、プロレタリアートの同じ一つの大政党をつくりだし維持するためには、階級的地位が同一だということの理解にもとづく、単純な連帯の感情で十分となったくらいである」(エンゲルス「共産主義者同盟の歴史によせて」)。現実がこんなに単純素朴であったなら、プロレタリア革命も実に容易だったことだろう。
実は、ドイツの修正主義論争について、左翼よりもはるかに深く学んでいたのが日本の資本家層である。革共同・中核派の陶山健一氏が書いた『反戦派労働運動』(一九六九年)に住友金属が当時用いた「中堅社員用教科書」が引用されている。興味深い内容なのでそのまま孫引きする。
「マルクスは、資本主義社会の未来として三つの予言をした。一、労働者の絶対的窮乏化、二、社会の二大階級への分化、三、国家の階級性である。しかし現実にこの予言は全部外れた。第一に、労働者の生活は豊かになり、江戸時代三千万人であった日本は、資本主義の下で一億の人間がはるかに高い生活をしている。第二に、たしかに農民は減少したが中間層はむしろ増加し、新たに技術者などの『新中間層』が大幅に拡大している。第三に、国家は公共事業や厚生福祉など、国民へのサービス機関としての役割をますます増大している」
「ロシアや中国の社会主義は、いずれも後進国における農民革命であり、共産党の独裁によって工業化を行ったものである。今日では、利潤導入などで『経済原則』の貫徹に向かっている」
「資本主義には、景気変動・失業・貧富の差などの欠点がたしかに存在する。しかし、二九年大恐慌以来、国家が登場し、ニューディール政策によって景気変動を調整しており、技術革新によって、失業と貧困は大きく改善された。貧富の差も、最近では大衆株主が普及し、『資本の利益』は総合利益に変わってきている」
いずれも、ベルンシュタインの主張をアレンジし、練り上げた内容で、おそらく河合栄治郎ゼミのグループ、特に猪木正道の研究成果が反映されている。当時から資本の側がドイツ革命の教訓を徹底的にとりこんで労働者を教育していた事実にたいへん驚かされる。おそらく新旧左翼すべてがそうだったと思うが、陶山さんを含めた当時の革共同は「勝利した」ロシア革命とレーニンの後追いにとどまり、ドイツ問題をまともに検討していなかった。最盛時の革共同の労働運動も、これほど密度の濃い資本の理論攻勢にたいして、せいぜい『賃労働と資本』や「疎外論」を対置したにすぎない。陶山さんが「生きがい」や「人間としての誇り」を語って既成労働運動を「物取り主義」と罵倒するのを読んでいると、戦前戦後の貧困の中でたたかってきた労組古参活動家の「物取りで何が悪いのか」という苦々しい表情が目に浮かぶ。結局、革共同は一部の青年労働者を囲い込んだだけで、改良主義労働組合に太刀打ちできなかった。労働運動に経済的根拠抜きの「生きがい」を求めた「反戦派労働運動」は一種の「生きがいサークル」の域を超えられなかったように思う。
(2) ボリシェビキの本質は少数インテリゲンチャの革命運動
こうした戦後日本の現実に、われわれはロシア革命をそのままトレースし、レーニン革命論を適用しようとしてきた。レーニン主義に人生をかけてきた新左翼の活動家にとって、レーニン批判はきわめて深刻な問題だが、「レーニンとは何か」というテーマを整理するためにも、従来あまり触れられてこなかったレーニンの一面をとりあげてみたい。
結論的に言うと、レーニンやボリシェビキはマルクスが背景としていた労働者の自発的な解放運動、労働運動の伝統とは異質な思想的・運動的系譜、すなわちロシア・ナロードニキ直系のジャコバン派に属している、ということである。ここでいう「ジャコバン派」とは、民衆が初等教育を受けられず文字も読めない社会状況を背景に、少数の自覚ある知識人が大衆に代わってその利害を代行し、民衆全体を指導・教育する運動のことである。「ジャコバン」という語感には、フランス大革命の連想から、死をも恐れぬ革命家の献身性、これと表裏一体の独善的なテロリズムが含蓄されている。そういう意味では日本の新左翼も「ジャコバン主義」だった。
ちなみに、マルクス自身は共産主義を労働者の自己解放運動と規定する一方、労働者が一人もいないブランキのセクトを「最もプロレタリア的」と高く評価するなど、一貫して労働者運動とジャコバン運動との両論併記なのだが、この点は別の機会にあらためて触れたい。
レーニンという人格には、デカブリストの乱(一八二五年)以来のロシア的ジャコバン派の思想と運動が結実しており、その思想的骨格においてマルクスよりロシア土着思想の影響の方がはるかに大きい。この点の検証は、欧米では多くの研究書が出されているようだが、日本では松田道雄氏がナロードニキの系譜を丹念にたどっている以外、あまり見当たらない。ここでは「レーニン」を構成する要素として、数多い革命家の中からチェルヌィシェフスキー、トカチョフ、ネチャーエフの三人を挙げたい。
チェルヌィシェフスキー(一八二八〜一八八九年)はロシアの革命家で、ツァーは農民の武装蜂起で打倒されるべきだと主張、六二年に収監され、生涯の大半を獄中で過ごした。彼の小説『何をなすべきか』(一八六三年)はロシアの学生に巨大な影響を与えた。検閲を考慮して書かれたその作品は、現代のわれわれが読んでも通俗小説のような印象を受けるが、彼はここでツァー専制の改良は不可能で、革命によって旧体制を根絶しなくてはならないこと、そのためには革命に専念する「新しい人間」が必要だという観念を説き起こしたと言われる。六〇〇万部売れたというこの本を読んで多くの学生が革命家になった。レーニンの同名の著作はもちろんこのチェルヌィシェフスキーの作品を念頭に置いている。レーニンの「護民官」「職業革命家」という概念はチェルヌィシェフスキーの「新しい人間」から派生している。
トカチョフ(一八四四〜一八八六年)もナロードニキのイデオローグ。彼の主張の骨子を 『ロシア・ナロードニキのイデオローグ』( ガラクチノフ、ニカンドロフ)から引用しよう。
「トカチョフは、革命の決定的ファクターとして、自覚した少数者の組織的行為すなわち厳密な原則、見解と目的の統一で固く結ばれ、中央集権的政党に結集された『知的にも、道徳的にも優れた人たち』の組織的行為を考える。この政党の主要課題は、統治的権力を握ることにあるが、国家を媒介項とする獲得手段は、陰謀だ。だが、政治的権力を握る主要課題を追求する党は、『この目的を首尾よく達成するには、ナロード[人民]の直接、間接の支持がなければ不可能だ』ということを寸時も忘れてはならない。したがって党は二重の性格をもつ。『一方では、上からの権力獲得の準備と、他方では下からのナロードの一揆(暴動)とを行うことが必要だ。』戦術的計画のこの二つの部分の組合せと緊密な結合だけが、何らかの『プラスの揺るぎない成果』を生むのである…」
たったこれだけの文章でも、一読して「職業革命家の目的意識性と大衆の自然発生的な破壊力とを融合する」という『何をなすべきか』の構成を連想した人も多いと思う。レーニンがトカチョフを下敷きにして『何なす』を書いたことは間違いない。
トカチョフは大衆の「心理的貧困」を論じ、「一切れのパンのために全般的利害を見失う」民衆には状況を変革する能力がないとして、民主主義制度には何の価値も見出さなかった。何が正しいかを知っているのは少数の革命家だけである、というトカチョフの主張は、そのままレーニンの外部注入論に継承されている。
さらにトカチョフは革命を革命家の主体と意識の問題にしぼりこみ、歴史的発展の必然性という脈絡ではとらえない。「今革命をやるのかそれとも永遠に奴隷のままか」という彼の主張は、「だったら今すぐ革命をやってみろ」とエンゲルスから批判されたが、革命家の決意が歴史のテンポを速める、党が革命を生み出すというその革命観はマルクスのそれとはかなり異質だが、ボリシェビキに広く影響を与えている。
革命国家の手に産業を集中し、国営化することで、資本主義を飛び越して一挙に社会主義へ移行する、という主張もトカチョフに由来する。
レーニンの革命観、革命党組織論は事実上トカチョフのそれと同じであり、トカチョフが「マルクス主義の用語を用いない最初のボリシェビキ」と呼ばれるゆえんである。
ネチャーエフ(一八四七ー一八八二年)は、理論的に新しいものを提起したわけではないが、チェルヌィシェフスキー、トカチョフが練り上げた革命党思想を完全に実践した点にその歴史的画期がある。
バクーニンとともに彼が書いた「革命家のカテキズム(教理問答)」は、ボリシェビキ型革命党の倫理を鮮明に表現している。
「(一)革命家は死を宣告された人間である。彼は、個人的関心、事情、感情、愛着物、財産、さらに名前すらもたない。彼のうちにあるすべては、ただ一つの関心、一つの思想、一つの情熱、つまり革命によってしめられている。…
(三)革命家はあらゆる空論を軽蔑する。彼は世間的な学問を放棄し、それを未来の世代にゆだねたのである。彼は唯一つの科学、破壊の科学を知っているだけであり…(彼が学問を研究する)目的はただ一つ、この汚れた機構のもっともすみやかな破壊である。
(四)彼は世論を軽蔑する。彼は現在の社会道徳につながるすべての動機や現象を軽蔑し憎悪する。彼にとって、革命の勝利をたすけるものすべてが道徳的なのであり、それを妨げるものすべてが不道徳的であり犯罪的なのである。…
(六)彼は自己にきびしくあるとともに、他の人々にもきびしくしなければならない。家族、友情、愛情、感謝、さらには名誉といった柔弱で女々しい(ママ)感情はすべて、彼のうちでは、革命の事業をめざす唯一の冷徹な感情によって抑制されねばならない。彼にとっては、ただ一つの安らぎ、慰め、報酬、満足が、つまり革命の成功があるだけである。…彼はみずからが非業の死を遂げる用意があるだけでなく、目標の達成を妨げるすべてのものをみずからの手で殺す用意がなくてはならない。…
(八)革命家にとって友であり愛すべき人でありうるのは、彼自身と同じように、現実に革命家としての活動をおこなった人だけである。このような同志にたいする友情や信頼やその他の責務の程度は、すべてを破壊する実際の革命事業における有用さの程度によってのみ決められるのである。」
こうした文章がまだまだ続くが、松田道雄編『ロシア革命』に全文掲載されているので興味がある方はそちらを見ていただきたい。党の運営資金を獲得するためなら徴発部隊による銀行強盗や殺人を厭わず、金持ちの遺産をまるまる手に入れるため党員と資産家令嬢の政略結婚も辞さなかったボリシェビキの倫理観がここで定式化されている。これを読むと、スターリンが何か特異な異常性格者だったわけではなく、「カテキズム」が求めた理想的人格だったことに気づく。今思い返せば、私が革共同に結集すると決意した時に要求されたのも、当時は言語化できなかったが、まさにこの「カテキズム」の世界だった。言うまでもなく日本共産党もその継承者だったし、新左翼の党派人なら誰しも、痛みとともに「そういえばあの時の…」と思い当たる節があると思う。
ネチャーエフはこの「カテキズム」の思想そのままに、秘密組織の仲間の一人を「革命にたいして十分献身的ではない」という理由で殺害した(ネチャーエフ事件、一八六九年)。事件はすぐに発覚し、組織は一網打尽、ネチャーエフは殺人罪で逮捕され、やがて獄死する 。ドストエフスキーの『悪霊』は、当時ロシア社会を揺るがしたこの内ゲバ殺人事件を題材にしている。
レーニンはこの三人をきわめて高く評価していた。 亡命時代にレーニンの秘書を務めたボンチ・ブルーエヴィチの回想によれば、レーニンは「トカチョフの「ナバート」[警鐘]、「オプシチナ」誌、ネチャーエフの宣言類を…『細心の注意と関心を払って』」読み込んでいた。「V. I.[ウラジミール・イリイッチ] はトカチョフのこれら著作を自ら読むだけでなく、この独創的思想家の価値ある著作に習熟するようわれわれにも勧めていた。一度ならず、彼は新しく到着した同志に向かって非合法文献を学びたいかどうか尋ねた。『トカチョフの「ナバート」を熟読するところから始めなさい。これが基本文献で、豊かな知識を君にもたらすだろう』とV. I.はアドバイスするのだった。」(Rolf Theen, Lenin: Genesis and Development of a Revolutionary)
ドイツ共産党員で一九二九年までコミンテルン職員を務めたフランツ・ボルケナウは、ボリシェビキとロシア革命の特質を次のようにまとめている。
「職業革命家の組織は、厳重に選抜され、至高の組織への絶対的服従を近い、あらゆる犠牲を厭わず、外部の世界との関係をすべて絶ち、言葉のもっとも極端な意味で無階級的であり、自己の組織のため以外はいかなる満足も道徳的義務を感じないという点で、およそいかなる労働運動の存在よりはるか以前から、ロシアの土に根ざした独特の産物なのである。レーニンは、この組織の独特な選抜と活動の仕方、その独特な宗教的情熱、同じく独特な普通の道徳的基準への無関心を、ロシアの労働運動に持ち込んだ。ロシアを彼の職業革命家の組織で征服すると、かれは同じ方法を西欧に持ち込もうとした。この企ての歴史がコミンテルンの歴史なのである。概念全体が西欧のもっとも革命的な社会主義者にすら縁の薄いものだった。ロシア革命の実践的宗教的道徳的側面にしたがおうとする人たちと、西欧の概念に生きる人々とのあいだに、解決できない争いが不可避的に生じた」
ロシアの革命家にとって、革命という手段だけは変わらなかったが、革命の目的は自由主義や議会民主主義、スラブ主義、社会主義へと変転し、その方法は武装蜂起、農民大衆へのプロパガンダ、ツァーリ殺害、ストライキと次々に変遷した。しかし、「信念の変転において変わらない一つの事実、職業革命家の組織の背後にある実体は何なのか。それはいうまでもなく革命的インテリゲンチャであった。職業革命家たちはインテリゲンチャの見解を表明し、そのもっとも自己犠牲的メンバーを選抜したのである」。革命という「手段は普遍であるが目標は事情により可変であるということは奇妙なことである。しかもロシアの革命運動の場合はまさにそうだったのであり、その顕著な表現がボリシェビズムであった」。
「ロシアでは、革命家の中心問題は、最初から最後まで、西欧でほとんど奇妙に聞こえるようなことだった。つまり、民衆の代表という名目の革命家が、いかにして民衆との接触をうるかということである。七〇年の間、革命運動はこれに失敗して来た」。「一九一七年の革命のもっとも顕著な人物はレーニン、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、スヴェルドルフ、スミルガ、ブハーリン、ゼルジンスキー、スターリンであり、そのなかには一人の労働者もいない。これは西欧では想像もできない事態なのだ」。ローザ・ルクセンブルクは「職業革命家の組織と労働者階級を『結びつける』というレーニンの考えに抗議した。…『社会民主党は労働者階級の組織と「結びつけ」られてはいない。それ自身が労働者階級の運動であるから』と。」(F・ボルケナウ『世界共産党史』)
ボリシェビキ運動はツァー専制体制の下で生まれ成長した、革命的知識人による革命運動である。住民の大半は文字が読めず、地主による小作人の奴隷扱いが横行し、行政機構は腐敗・停滞、年金もなければ失業保険も医療保険もなく、労働組合は非合法で賃上げストにすら軍隊が発砲し、秘密警察の網があちこちに張り巡らされている—こうした状況にあった当時のロシアでは、ボリシェビキの扇動に応え、ボリシェビキのクーデターに呼応して労働者階級が立ち上がったことは理解できる。しかし高等教育が普及し、労働三権が保証され、国民皆保険や各種年金制度まで整えた議会制民主主義国家・日本でレーニン型の職業革命家組織が活動すれば、凄まじい摩擦が生じないわけにはいかなかった。
むろん、レーニンその人は実に多面的で教養も深く、西洋労働運動を一定理解し、ある面では尊重もしていた。最後の発作で倒れる直前、一九二二年十一月のコミンテルン第四回大会では、「ロシアの経験を押し付けたことでヨーロッパの革命を遅らせたかもしれない」という反省の弁を残しているし、同じ頃スターリン独裁権力の横暴さを見て異形の怪物を自らが生み出したことを後悔し、「レーニン最後の闘争」を決意している。レーニンにそういう多面性があることは確かだが、少なくともスターリンが定式化した「レーニン主義」—レーニン本人は「私はレーニン主義者ではない」と言っただろうと思う—は、レーニンですらコントロール不能なロシア革命の伝統と潮流に根ざしていたように思えてならない。
(3) ドイツ共産党と同じ轍を踏んだ日本の新左翼
歴史上、ロシア以外でボリシェビキ革命を本気でやろうとして、見事に破綻したのがドイツ共産党だった。…と書くと、そんなコメントは聞いたことがないという人も多いと思う。それも当然で、左翼業界がとりあげなかったドイツ革命の古典的名著が存在するとはいえ、ドイツ革命とドイツ共産党の実態はこれまでかなりの部分が歴史の闇に覆われてきた。ドイツ共産党から粛清された左右両派の指導部は、東ドイツではスターリン(=テールマン)に刃向かった「背教者」、西ドイツでは共和国転覆を目論んだ「過激派」とされ、間違いも含めた彼らのありのままの姿は東西冷戦の色メガネを通じてドグマチックに脚色されてきたのである。
近年、ソ連の秘密書庫をもひもといた若手研究者の手で左派指導部の伝記(ルート・フィッシャー、アルカディ・マスロー、ヴェルナー・ショーレム、リヒャルト・ミュラー、マックス・ヘルツなど)が次々に発表されている。他にもドイツ革命史研究で必読文献とされるピエール・ブロウエ『ドイツ革命 1917—1923年』、リヒャルト・ミュラーの革命三部作など重要文献がいくつもあるが、いずれも邦訳がなく日本語で読めない。英訳すらないものも多い。日本でも先駆的な研究を手がけた人々が多くの史料を翻訳してきたが、古い世代が触れてこなかった研究領域が広大に開けている。
ドイツ語に不明の私は賃労働を終えてから英訳本を読み続けているだけなので、ドイツ共産党を論じてもそのさわり程度にすぎないのだが、英語やドイツ語ができる方々の協力をお願いする意味も込めてそのエッセンスを紹介してみたい。
ドイツ共産党左派潮流は、ドイツ社民党との妥協を一切拒否し、労働者の主体状況を無視して即時権力奪取を主張する点にその特徴があった。彼らの短兵急な在り方を、古参活動家からなるメイヤーやクララ・ツェトキンら右派の重鎮は「生かじりの知識を振り回す世間知らずのインテリの若造」と軽蔑したが、フィッシャー、マスロー、ショーレム、ローゼンベルクといった、二〇代三〇代のそうそうたる左派インテリを下から支えていたのは、塹壕戦を生き抜いた叩き上げの労働者集団、「革命的オプロイテ」の若手活動家だった。オプロイテが主導した反戦ストライキは文字通り命がけで、大規模なストを打つたびに指導者とみなされた現場活動家が片端から徴兵され、前線で死んだ者も多かったという。「1914年世代」と呼ばれるが、ドイツ社民党青年部の活動を経て凄惨な塹壕戦を戦い、獣のように戦場をのたうちまわってきた彼らにとって、戦争に反対したカール・リープクネヒトやローザ・ルクセンブルクの存在は自分たち兵士も人間であることの証であり、ロシアの革命こそ彼らの生きる希望だった。ショーレムは三年間の前線生活を通じて、アイドルのブロマイドのようにカールの写真はがきを身につけていたという。彼らにとってカールとローザを殺したドイツ社民党は不倶戴天の敵、絶対的打倒対象であり、社民党と妥協するくらいなら死んだ方がましといった調子で、レーニンがいくら『左翼小児病』と左派を批判しても彼らは歯牙にもかけなかった。ちなみに当時の『共産主義における左翼小児病』ドイツ語版にはマスローの長い解説がついていたが、希望閣版『左翼小児病』(二六年)の邦訳では何かきな臭いものを感じとった翻訳者がマスロー解説を省略したそうだ(石堂清倫『わが異端の昭和史』)。レーニンにたいするマスローの反論をぜひ読んでみたいものである。
ボリシェビキのように、鉄の規律をもった中央集権の党があれば革命に勝利できると信じたドイツ党左派は、二四年に中央委員に選ばれて組織人事を一手に握ると、「ボリシェビキ化」政策の先頭に立って「右派」とみなされた地区党書記を片端から左遷し、「分派禁止」規定を導入して党内民主主義を圧殺した。ボルケナウが指摘する通り、ロシア・ジャコバンの価値観を左派がドイツもちこんだことでドイツ党内に混乱と軋轢が生じた。二五年にスターリン派が左派の粛清を開始し、ショーレムもまた中央委員を解任されたが、自ら導入した「分派禁止」規定があだとなって党内反対活動がほとんどできなかった。皮肉なことにドイツの「レーニン主義者」=フィッシャー、マスロー、ショーレムこそが党をスターリン主義化する露払いの役割を果たしたのだった。党から除名された彼らは二八年に「レーニンブント」という反対派組織を結成したが、スターリンのいわゆる「左旋回」を受けてわずか一年で組織を解散している。
話を戻すと、「即時権力奪取!」という左派的な機運は、ドイツ労働者の最下層の生活にも深く根ざしていた。その典型が二一年三月蜂起の舞台となったドイツ中部マンスフェルト地方である。この地域は社会保障制度の枠から外れ、社民党にも組織されていない銅鉱山、褐炭鉱の鉱夫や農業労働者、ロイナのアンモニア製造工場が中心となり、共産党の呼びかけに応える形で地域まるごと武装蜂起に立ち上がった。貧しい農業労働者の家庭に生まれ育ち、すでにゲリラの親玉として懸賞金がかけられているマックス・ヘルツがマンスフェルトに現れ、五〇〜三〇〇人の労働者赤軍を組織して銀行強盗や資本家からの徴発で赤軍兵士に給与を払いつつ、貧乏人にお金や食糧を再分配した。労働者赤軍は一時的に地域を制圧したが、鎮圧に来た重武装の国防軍には歯が立たなかった。部隊はちりぢりとなったが、ヘルツは民衆が匿ったことで軍の重包囲を突破して逃亡した。三〇年代になってもマンスフェルトの村では、肉屋の店先で労働者の女房が代金を払えず困惑していると、他の女が「マックス・ヘルツが払うさ!」と言ってみんな笑い、肉屋の主人も勘定をツケにしたというエピソードが残っている。ドイツの最下層労働者が社会主義に託した夢とロマンが伝わってくる話である。
ヘルツはその後逮捕され、彼が関与していない殺人の件で終身刑となり、八年の獄中生活を経て二八年に釈放されている。もともと共産党はヘルツに好感をもたず、「党の統制にしたがわないアナーキスト」というレッテルを貼って党から除名していた。釈放されたヘルツは行き場がないままロシアに移り住んだが、三三年にスターリンの命令で殺害されている(マックス・ヘルツについては垂水節子『ドイツ・ラディカリズムの源流』を参照)。
こういう下からの革命機運があったのと同時に、日本で言えば連合、当時のドイツでいえばADGB(ドイツ労働組合総連合あるいは全ドイツ労働組合総同盟と訳される)は頑強な改良主義の拠点であり、社民党の固い支持基盤をなしていた。社民党から独立社民党あるいは共産党が分裂した後も、情勢によって多少の増減があっても社民党は常時七〇〇万程度の支持票を維持していて、労働者多数派の地位を譲ったことはない。その物質的根拠は、生活の全般的改善、労働組合の地位向上、社会福祉システムの整備などいろいろ考えられるが、詳細は『フラタニティ』二一号の拙稿「ドイツ革命敗北の真実」を参照していただきたい。
労働者の一定部分に存在する革命的機運を背景に、コミンテルンとドイツ党左派は「党が能動的に情勢に介入することで革命情勢を促進できる」という「革命的攻勢」理論を掲げ、二一年三月に激烈な武装蜂起を呼びかけた。先に見たマックス・ヘルツを先頭に、マンスフェルト地域がこの呼びかけに応えて立ち上がったが、社民党やADGB傘下の労働者がこれに続く気配はまったくなかった。労働者をむりやり立ち上がらせようとする共産主義者と職場労働者の間で抗争が起きた。「ラインハウゼンのクルップ・フリードリッヒ—アルフレッド工場では工場を占拠した共産党員と就業しようとする労働者との間に暴力的な衝突が起きた。労働者たちはとうとう共産党員を棍棒で排除して入場した。この際八人が負傷した。ベルギー兵が衝突に介入して両者を隔て、二〇人の共産主義者を逮捕した。工場から叩き出された共産党員は援軍を連れて戻り、再び構内を占拠した」。アメンドルフでは、労働者をたきつけようとした共産党が線路を爆破し、列車を脱線させた。装甲列車や軍用貨物車を吹き飛ばすならともかく、一般客車を狙うなんて、という全鉄道員の憤激をかっただけだった(パウル・レヴィ『われわれの道』)。全国で逮捕された共産党員は総計で強制労働一五〇〇年、懲役五〇〇から八〇〇年、終身刑八名、死刑四名の求刑ないし判決を受け、数万の党員が解雇された。三五万党員のうち二〇万人が脱党し、文字通り壊滅的打撃を蒙った。
「三月行動」の敗北を経て、これを主導したブランドラー、タールハイマーは「転向」し、その後除名されるまで統一戦線を重視する右派の立場を貫いた。その彼らが一九二三年一〇月の革命的危機にはまったく行動できなかったため、二四年になるとフィッシャー、マスローら左派が党中央に就任するが、その彼らも二五年大統領選挙で敗北した責任をとらされる形で解任、といった具合で、ドイツ共産党は左派路線(暴動)と右派路線(統一戦線)の間を行ったり来たりするジグザグを繰り返した挙げ句、コミンテルンの介入で左右両派の指導部が粛清され、ロシア防衛の外郭団体に再編されたのである。
「二つの競合する原理がKPD内部で常に確執していた。SPDを不要なものにしたいという希求と、同時に社民党との協力なしで労働者の諸権利のための闘いを成功させることはできないという認識である。KPDこそプロレタリアートの前衛だという党の主張と、共産主義者は社会民主党との統一戦線を通じてのみ政治的力を得ることができるというあまり気乗りしない洞察とがぶつかり合った。」(Mario Kessler, A Political Biography of Arkadij Maslow)
「真のディレンマは、革命家でありつづけるか、大衆を獲得するかの二者択一にあった。左派は前者をとり、条件が耐えがたいものとなれば、労働者は共産主義者の考えが正しかったことを悟り、自分の考えを変えるだろうと主張した。これにたいして右派は大衆を獲得する方を選び、いったん大衆を獲得してしまえば、かれらを革命にみちびくことは容易であろう、とまったく気やすく断言した。」
「共産主義はレーニンの定義によれば…プロレタリアートと結びついた革命家の党である。…かれらは労働者の大多数が自分のところに来るものと思ったが来なかった。そこで革命的スタッフは一つのジレンマに直面した。近代的プロレタリアートの非革命的大衆組織に従うか、それと闘うかである。かれらは最終的決定ができないままに、二者択一のあいだをあちこちと動揺した。しかしその動揺はまさしくひどい敗北をもたらした。…これは…なにかたった一つの誤りのせいではなく、『路線』の誤りのせいなのである。事業そのものが不可能なのであった」(ボルケナウ『世界共産党史』)
ドイツ党の道筋を振り返ると、革共同・中核派の歴史を思い起こさないわけにはいかない。革共同も六七年一〇・八羽田闘争を皮切りに、ドイツ共産党と同じく少数派のまま武器をとった。「激動期の行動原理」ないし「先制的内戦戦略」と定式化されたその戦略は、ドイツ共産党による「革命的攻勢」理論の二番煎じだった。三里塚で、国鉄で、渾身の「武装蜂起」をくり返したが、党がたぐりよせるはずの革命情勢—「八〇年代中期階級決戦」はやってこなかった。党の行動だけが先鋭化し、九〇年天皇決戦で破防法適用が切迫すると、破防法裁判被告を含む党中央幹部が集団で逃亡、革共同はその中枢が崩壊した。即位式当日の皇居迫撃弾戦闘は中央不在のまま現場の独断で遂行されたという証言もある。中央で残った清水・高木両氏は「非公然」と称してただ隠れていたにすぎない。
先制的内戦戦略が破綻すると、これまたドイツ党と同じように労働運動路線(=統一戦線政策)に舵を切り、党の勢力回復と影響力拡大を図ったが、既成労働運動—特に「連合」の壁を一度も突破できないまま、軍や反差別諸戦線を背景とする「左派」と労働運動を背景とする「右派」が激しい党内抗争をくり返し、そのジグザグを通じて有能な活動家の大半が粛清され、政治団体としての社会的影響力を失ったのだった。
(4) ジャコバン運動の対極にある「労働者自己解放運動」
ジャコバンと対極にあるヨーロッパの労働運動は、労働者自身の自己解放運動として出発しながらも、労働者組織のなかでたえず官僚制や特権層が台頭し、組織が労働者の利益を代表しなくなって、これをなんとかしようとする創意工夫と失敗のくり返しだった。成功したモデルケースがあるわけではないが、われわれが運動の原点を模索するうえで、労働者の民主主義精神とその苦闘を振り返ることはおそらく意味があると思う。
ウェッブ夫妻によると、中世ギルドを前身とし、一八世紀にイギリスで出現した各種労働組合組織は、いずれも素朴な民主制組織として登場した。「総ての人間は平等」というだけでなく『全体に関することは全体によって決定しなくてはならない」という信念にもとづいて、全員参加の総会選挙による直接民主制、全員投票による決定、代表の輪番制などを特徴とする原始的な民主制を採用していたのである。こうした原始民主制の痕跡は、後々まで労働組合組織のなかにその痕跡を残している。
一八二四年に結社禁止法が廃止されるまで、イギリスの労働組合は非合法で常に雇主から訴訟攻撃を受ける可能性があったため、弾圧対策という面からも初期の労働組合は常設の代表機関を置かなかった。しかしいったん争議になれば組合は臨時の闘争委員会を選出し、全員が指導部の命令一下その指揮にしたがって行動した。指導部は委任された権限を超えることはなく、不満が出ることはまったくなかったという。
しかし、全員が顔見知りという数十人の地方的職業組織なら可能だった原始的民主組織は、全国各都市で組織された数万数十万単位の規模に労働組合が発展し、組合内の行政事務が複雑化・多様化するのに伴い、次第に専門的官僚機構や役員層が組合内で台頭するようになった。効率的な行政実務能力がなければ資本家との闘争で組合はその役割を果たせないが、かといって専門知識層が組合員の生活感覚とかけ離れた特権層として結晶化したら、これまた組合本来の役割を果たせない。全国規模の大組織となった労働組合が、高度な専門的・行政的能力を確保しつつ、その役員層をいかにして民衆的統制に付すのか。その葛藤の歴史がイギリス労働者運動の歴史だった。
組合の行政能力という場合、たとえば保険工学が挙げられる。そもそも労働組合は失業や疾病・傷害などにたいする共済組合として出発しており、掛金と各種給付の間に統計にもとづく保険工学に基礎を置いていなければ、掛金と釣り合わない給付の大判振る舞いによって労働組合会計が破産する。実際、組合基金が底をついて借金づけとなった労働組合も数多くあったという。
また、当時の主要産業だった綿紡績業では出来高払賃金が採用されており、雇主との交渉では複雑な原価計算が求められた。当時、労資交渉を直接担う書記集団には以下のような試験が課され、得点上位者が書記に選任されたという。
「八〇番手の平方根を少数第三位まで計算せよ。しかる後、標準を縦の場合には該番手の平方根に三ヵ八分の一を乗じ、撚糸の場合には三ヵ八分の五を乗じたるものと仮定し、撚糸および縦の各インチについて要する回転数を見い出せ」
「直立の軸一分毎に八〇回転の割合で走り、その軸上七〇歯の車輪が横軸上の四〇歯車輪を押し動かす。また各一対の精紡機の上方に直径四〇インチの鼓輪が横軸上で直径一六インチの反対滑車を押し動かす。反対軸上で直径三〇インチの鼓輪直径一五インチの輪縁滑車を押し動かす。この場合に毎分の輪縁軸の回転数を示せ」
問題文を見ただけで、当時の賃金闘争における労働組合の苦闘が伝わってくる。賃金が安いの高いのといって資本家とやりあうには、肉体労働で疲れた労働者が夕刻に合議する輪番制だけではとてもやっていけなかったのである。
しかし、こうした知識や能力を有する専門役員層は、その地位が固定化するにしたがって次第に現場労働者の生活感覚を失い、民衆の統制を離れて組合ボスとして独裁的な権力を行使するようになっていったという(シドニー&ベアトリス・ウェッブ『産業民主制論』、一八九七年)。
ウェッブ夫妻が描くのはもっぱら労働組合組織の話に限られているが、イギリス労働党の場合は労組の政治部という色合いが強いので、おそらく労働党の状況も労働組合に準じているという理解でいいと思う。
ドイツでも労働組合や社会民主党内部でやはり同様の理由や経緯から、特権官僚層が結晶化している(ロベルト・ミヘルス『現代政治における政党の社会学』)。社会民主党の特権官僚機構にたいする反発から、ドイツ共産党では党員大衆による役員層の民主的統制がきわめて重視された。フィッシャーによれば「当時、共産主義者は、自らの『生まれながらの民主的権利』にとても敏感だった。その一つが地区全体集会で、そこではあらゆる政治的・組織的諸問題が、党内での地位や立場に関係なくすべての発言が等しい重みを持つ基盤の上で論じられ、決定された」。党員にとってもう一つの民主的権利が「有給、無給の党職員を選挙する権利だった。ドイツ労働運動の神聖かつ精力的に擁護された伝統によれば、一般大衆の推薦、討論、投票抜きに誰も労働者組織のなかで地位を得ることはできなかった」。
コミンテルンが介入する以前、ドイツ共産党は現場党員の問題意識や反省にもとづいて組織改編をくり返していた。もともと社会民主党は地区組織を選挙区に応じた地区割編成にしていたが(〇五年)、共産党はこれを職場単位に再編した。二一年三月行動の反省に伴って五月に大規模な組織再編が行われ、あらためて職場編成と地域編成という二つの基準で党を再編している。大きな地方組織は中規模な地区組織に分割、これがさらに一〇?二〇人からなる「一〇人組」という最小単位に分割された。工場内での活動には「工場フラクション」が編成され、党員が選挙した職場代表や工場評議会メンバーがこれを指導した。地区党執行部は四分の一が職場単位、もう四分の一が地区単位で選ばれ、残る二分の一は党員総会で直接選挙された。婦人団体や青年団体、救援対策部など各種団体の代表は総会の枠から党執行部に選出された。選出された各級リーダーは、選出母体によっていつでも解任されることができた。
「共産党の職員は厳格な説明責任を負っていた。彼らはリコールされえた。彼らは全能の官僚ではなかった。フリースラントがモスクワと妥協した時、一九二一年第三回コミンテルン大会から戻ってくる途上でベルリン—ブランデンブルク地区の指導的活動家が彼を解任した。党議長でその後コミンテルン執行委員会代議員となったエルンスト・メイヤーは、一九二三年ライプチヒ党大会の中央委員会秘密投票で解任された」。あっさりと書かれているが、実にものすごい組織実践である。
こうした民主的慣行が変わっていったのは一九二四年以降で、二三年一〇月の大失敗の責任をコミンテルンがブランドラーとタールハイマー、「右派指導部」になすりつけたことから始まる。「スケープゴートをつくる慣行が新たな時代に入った」(Pierre Broue, The German Revolution 1917-1923, 1971)。
結局、ドイツ共産党のこうした民主的在り方はコミンテルンと左派指導部を通じて破壊され、ジャコバン的な中央集権制度にとって代えられた。フィッシャー『スターリンとドイツ共産主義』はドイツ党がスターリン主義化される過程を描いているが、その前段で自分たちが党を「ボリシェビキ化」した過程は省略している。この点はRalf Hoffrogge, A Jewish Communist In Weimar Germany ? The Life of Werner Scholem(1895-1940)が詳しい。
日本ではイギリスやドイツの先例に比すような民主的労働者組織の歴史経験は、あったのかもしれないが私はまだ聞いたことがない。おそらく一向宗の「講」ぐらいまでさかのぼれば、われわれが知らない歴史に埋もれた経験がいくつもあるのではないかと思うが、欧米に比べると、労働者の自立的で民主的な組織運営の経験が少ないことは事実だろう。
ところで私の所属する「未来への協働」という政治グループが直接民主制を唱え、組織代表の「くじ引き」や「輪番制」にまで言及していることにたいして、「こんなものを党と呼べるのか?」という反応が聞こえてくる。党などという規模にはるか及ばない小規模な地方サークルであることは間違いないが、規模はともかく組織の原理原則になると話はまた別である。
前述したように、イギリスの労働者組織はすべてくじ引きと輪番制から始まった。むろんくじ引きや輪番制は万能薬ではないし、もし組織が発展すればそれなりの専門家や行政職員が必要とされるだろう。そうなれば、イギリスやドイツがそうだったように、職員層や専門家をいかに民衆的に統制するのか、その創意工夫が求められるだろう。今の日本では労働者住民自身が階層的に分断されているわけだし、連合をどう考えるのか、社会変革の構想はどうあるべきか—多様な議論がこれから必要だし、議論していくことになるが、ここで問題なのは、課題に取り組み、議論する主体が、労働者自己解放運動という共産主義の原点に立っているかどうかだと思うのだ。労働者住民が集団の利害を正確に表現しようと努力している限り、その集団はいつか正しい自己表現を見出すはずである。細かい組織的・行政的創意工夫はさまざまあるだろうけれども、その場合の原則は二〇〇年前のイギリス労働組合が掲げたように、「全員に関することは全員で決める」であろう。気取って言えば「未来への協働」は組織論の原点を再確認したのであり、ありていに言えば振り出しに戻ったわけである。
「未来への協働」が中核派の関西OBOG会で終わるのか、新しい組織と運動の端緒となりうるのか当事者にもまったくわからないが、われわれが「ジャコバン」路線ときっぱり決別した以上、組織が困難にぶつかった時「難しいことは自分にはわからないので偉い人に決めてほしい」といって、別の「レーニン」や「スターリン」を押し立てるようなことだけは二度とないだろう。少なくともその決意と根性だけは共有している、と私は思っている。 (了)