
朝鮮・ベトナム戦争と日本
日本敗戦から間もない1950年から53年まで起きた朝鮮戦争は、第2次大戦後としては例をみない激しい戦争だった。韓国軍約20万人、米軍約14万人、国連軍全体36万人が死傷した。米軍の推計によると、北朝鮮軍は約52万人、中国の義勇軍約90万人が死傷をしたとされており、毛沢東の2人の息子も戦死をしたといわれている。
民間人の犠牲者は100万人とも、200万人ともいわれ、全体で400万人の犠牲者がでたとされている。想像を絶する規模だ。多くの民間人が、いとも簡単に虫けらのごとく殺された。朝鮮半島の風景、山河の形が変わるほど爆撃した。朝鮮の人々を殺した、その米軍機はどこから発進したのか。
「平和憲法」下の日本からだ。横田基地はじめ日本各地の基地から飛び立ったB29爆撃機が、北朝鮮を空襲、空爆し、朝鮮のハルモニたちの頭上に大量の爆弾が炸裂した。そして日本では、目立った反戦運動はなく、隣国の戦火を大いしに利用し金儲けをする。「朝鮮特需」で日本経済は復興した。トヨタ自動車工業(トヨタ自工)社史に記している。

朝鮮特需による戦後復興
「1950(昭和25)年6月25日、朝鮮半島で朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の軍隊が北緯38度線を越え、大韓民国(韓国)に侵攻した。朝鮮戦争の勃発である」「韓国軍の装備を早急に補うため、戦場に最も近い日本の工業力が利用され、同年7月10日には早くも米国第8軍調達部からトラックの引き合いがあった」「トヨタ自工は、ドッジ・ラインの影響で深刻な経営危機に陥り、人員整理にまで手をつけなければならなかったが、朝鮮特需を契機に業績は好転し、新たな一歩を踏み出すことができたのである」
戦後期の日本経済の復興は、徹頭徹尾、アジア諸国に対する戦争に加担をしたことに依った。朝鮮戦争までは、日本の経済の復興は考えられなかった。朝鮮に対する米国の戦争で、日本は供給する国となった。それが大いに日本経済に活を入れたという。戦後の日本が米国の戦略的枠組みの中、憲法の破壊行為以上のことをやらかしていたのだ。恥ずかしくないか。
しかも、1950年。アジア太平洋侵略戦争、アジア人民2000万人以上の戦争犠牲者への謝罪もなく、米軍の要請として朝鮮海域へ掃海艇を派兵した。掃海中に蝕雷し、戦争犠牲者を出している。それを「我が国の初めての国際貢献」などと、恥もなく賛辞を送っている。とんでもないことだ。

ベトナム戦争への加担
ベトナム戦争でも、米軍の主要な兵站基地は日本であった。M48戦車は米陸軍・相模補給廠から運び出され、ノースドッグから積み出され、ベトナムの戦場に送り出されていった。ベトナムの戦場から運び込まれた米軍の戦闘車両を修理し再生させ、再びベトナムに送り帰した。米軍への戦争協力を繰返していた。
沖縄は、ベトナム戦争でのアメリカ軍にとって重要な後方支援基地となった。
特に嘉手納基地は、大型爆撃機の補給・出撃拠点として活用され、1965年頃から頻繁に飛来し、1968年には常駐が開始された。同年に嘉手納基地で戦略爆撃機B52が離陸に失敗し爆発・炎上した。事故は、近隣住民に大きな被害をもたらし、基地の危険性を実感させる出来事となった。
沖縄から飛び立つB52
嘉手納基地からは連日、B52が飛び立ちベトナムに爆弾の雨を降らせた。 また日本は、爆弾や毒ガス、軍服、死体袋、車両、電気製品などアメリカ軍にとって必要な物資をつくり、産業界は「ベトナム特需」で潤った。さらに日本政府は、政治的経済的な巨額の支援を南ベトナムに実施している。何より寄与したのは、十分すぎるほどの中継兵站基地としての役割だ。米本土からの部隊や補給品は、海空路で日本各地の米軍基地(三沢、横田、岩国)や羽田、伊丹、板付の飛行場を経てベトナムへ向かっている。
日本は爆弾、死体袋、ヘリコプター、毒ガス、軍服、車輪、電気製品を生産し輸出した!どこが平和国家だ?どこが憲法九条だ? この時、「武器輸出3原則」などにどんな意味があったのだ。
「枯れ葉剤作戦」の被害
1961年、アメリカ軍は強力な除草剤を空から大量に散布する「枯れ葉剤作戦」に乗り出した。「ベトナム人民を、隠れ家と共に根絶やしにする」という作戦だ。この作戦を指示したのは、「リベラル平和主義者」と言われていたJ・F・ケネディだ。とてつもなく悪い冗談である。
枯れ葉剤に含まれるダイオキシン類は、自然界に残留して地下水系まで汚染した。生態系の中で野生生物などの食物連鎖で蓄積され、数十倍から100倍に濃縮され化学変化したりする。旧米軍基地にあった貯留タンクや、ドラム缶入り薬剤の漏出事故などによる基地周辺の汚染も深刻である。被害者・被曝者は、今も確実に増えている。生まれたときには先天性の障害が見つからなくとも、成人してから発症する人々も後を絶たない。被害の拡がりがいつまで続くのか、いつ終わるのか分らない日々が続く。枯葉剤の被害が続く限り、この戦争は終わらない。
1970年代に、国会で「枯葉剤が日本で作られ、ベトナム戦争に使われている」と追及された。枯葉剤の2,4,5∸T(ダイオキシン混入)を生産していた三井東圧・大牟田は、「輸出先はニュージーランドとオーストラリア。ベトナムには出していない」と抗弁した。
「枯葉剤」に加担した日本
ベトナムでの枯葉作戦は、ダウ・ケミカルやモンサントなど米・化学企業の増産で支えられていた。だが、現地からは「もっと送れ」と要求される。米国は、調達を三井東圧ほか、独ベーリンガーなど海外企業に依存していた。しかし、発覚すれば「戦争加担だ」との世論が当事国で起きかねない。そこで迂回してベトナムに届く「ころがし」が行なわれた。ニュージーランドにあるダウ・ケミカルの子会社は、アフリカやメキシコ、フィリピンに転送、そこからベトナムの戦場へと届けられた。日本は、この「ころがし」に加わり、秘かに枯葉作戦に参加していたのだ。ナパーム弾(焼夷弾)の輸出も、ベトナム特需の一つだった。
いま政権が進める武器輸出の先、そのものがベトナム戦争での加担と同じである。
『戦場の村』(本多勝一)
「この戦争で、日本はどれほどもうけているか知れないほどですなあ」…。
中佐はその実例としてPX(アメリカ軍基地内売店の商品)などが、ほとんど日本製であることをあげた。
「10輪軍用トラック。アメリカ製と思い込んでいたので、運転台を調べてみた。…この補給基地でみた10輪トラックの8割くらい日本製であった」「クイニョン港に行ってみなさいよ。日本のLSTだらけですから」
港一帯には、いすゞ自動車のトラックがたくさん走っていた。いすゞのバスは、各地の米軍基地内の交通に大量使用されている。…星条旗を翻した、アメリカ海軍省極東海上輸送司令部の大きな輸送船は、M船長(64歳)以下、すべての乗組員が日本人であった。
ベトナムで活躍するLSTのうち、一番多いのが日本の28隻、ついで韓国の20隻、アメリカの十数隻の順となる。横浜からの車両や、台湾からのセメントも運ぶが、主な任務はベトナムの港から港へと武器・弾薬を運搬することだ。この船(3660トン)の場合、カムラン湾から、この港へナパーム弾と150ミリ砲弾を運んできたところである。―(『戦場の村』本多勝一)
「九条を足蹴にした」発展
戦後の日本経済は、「平和憲法」「憲法九条」を足蹴にしながら、また日米軍事の同盟を共存させながら、その実態は米国の戦争に加担することから得られた果実によって成長してきた。復興の足掛かりは朝鮮戦争による直接特需であったし、ベトナム戦争に伴う間接特需、日本全土の米軍の兵站基地あるいは最前線基地の見返りとしての米国市場の開放であった。「戦後の復興」と高度の経済成長を成し遂げた日本の足下には、北朝鮮や韓国、ベトナムの人々、そして沖縄の犠牲があった。(つづく)(嘉直)
