
1945年8月6日、8時15分。突然、「轟音と強烈な閃光」を受けた。「熱い!!」と思った瞬間、10メートルほど吹き飛ばされた。頬の皮膚が「べろっ」と垂れていた。私は、旧制中学校の3年生、15歳だった。
その日は建物の疎開作業に動員され、爆心から東南へ1.4キロの鶴見町にいた。頬だけでなく耳、首、肩も火傷をしており、学生服は焦げ、胸の名札の白布が墨の黒字だけ焼け焦げていた。広島は、粉塵の底だった。大勢の亡霊のような人が逃げてくる。女子学生らはセーラー服、髪や腕、胸が焼け爛れ無惨だった。
広島駅近くの叔母の家へ、ひたすら歩いた。やけどのため、熱が出始める。叔母と3、4歳だった従弟と3人、広島が燃えるのを茫然と眺めた。誰かにもらったトマトが、やけどの身体にとても美味かった。
40キロほど離れた町に母の実家がある。翌日7日、やっと満員の汽車に乗ることができた。やけどで熱が出始めた。着いた駅から母の実家へ5キロほど、炎天下を歩くのが辛かった。途中に町の病院があり、「入院させてもらおう」と思ったが、驚いた。病院の周りは、全身焼け爛れた大勢の人たちが倒れ、寝かされている。仕方なく、また母の実家へ歩いた。
祖父母が、やけどに腫れ爛れた私を見て驚き、蝿がたかりウジが湧かないように蚊帳を吊り、寝かせてくれた。寝ていると、祖父母たちのヒソヒソ話が聞こえる。「知人を捜しに広島へ行き、帰った人が3日目に亡くなった」…、私に聞かすまいと気を遺っているが、耳に入る。「事後に入市した人が、そうなのだ。直接被爆した私は、もう助からない」と覚悟した。

その日、旧制中学の1年生だった弟(写真)も、作業に動員され、爆心から500メートル付近にいた。翌日から、父と伯父が焼け跡を捜し回り、やっと「笹の模様に見覚えがある弁当箱」を見つけた。遣骨代わりに、辺りの砂を入れ持ち帰った(1995年に資料館に寄託)。弟は、倒れながら1・5キロほど歩き、友だちの実家のお寺まで逃げたらしい。2日後の8日、苦しい息で「天皇陛下万歳」を唱え、絶命したという。本川沿いの「2中慰霊碑」には、全滅した1年生、弟を含め321名の名前が刻まれている。
「核廃絶のために、ぜひ証言を」と声もかかったが、思い出すのも嫌だった。あまりに酷く、悲し過ぎるのか、到底言い尽くせないと思うからか。それが、どうして「書く気」になったのか、自分でもよく判らない。「誰かに読んでもらおう」と思わない。15歳のあの時、弟と同じように死んでも不思議ではなかった。「以後は余生、オマケの人生」と、ゲンバクは一生、封印するつもりだった。それにしても80歳とは、長いオマケだった。そろそろ限度を感じたのかもしれない。
誰もが平和を願ってきたはずだ。それなのに、多くの国が核兵器を持つ。「総すくみ」で核戦争は簡単には起こせまい。しかし、「使わない」と誰が保証できるだろうか。むなしい、悲しい。ゲンバクは思い出すのも嫌だ。(竹田昭義:2010年9月記述、2011年8月13日没、享年81)
*被爆をいっさい語らなかった兄から、「誰に見せるつもりもないが…」と、この一文を託された。その半年後に、福島第1原発の大事故が起こる。兄は、「あれは原爆と同じ、大変だ。政府、東電、テレビ発表は嘘だ」と危機感を顕わに、毎日のように私にメールを送ってきた。(竹田雅博)
