311子ども甲状腺がん裁判で入廷する原告、弁護団、支援者たち=2025年9月17日、東京地方裁判所

 ヒロシマとナガサキ、福島原発事故を経験しながら、今年2月の調査では、日本人の原発再稼働の賛成が多数(賛成51%、反対35%)を占めています。ウランは極めて希少な資源で、化石燃料などよりもずっと早く枯渇します。原発は最も高価なエネルギーであり、経済的に採算が合いません。それどころか、過酷事故が起きれば一国が破滅しかねないほどの危険性をはらんでいます。それなのに、国内の老朽原発の再稼働を強行する政府をどうして日本人は許しているのでしょうか!
 政府は「核武装」という真の狙いを巧妙に隠しています。こんなフェイクと利権まみれの政治を絶対に許してはなりません。

廃炉作業で増え続ける被ばく労働者
 福島第一原発で溶け落ちた核燃料(デブリ)は880トン。この15年間で取り出せたのはわずか0.9グラム。東京電力は福島第一原発の廃炉作業を「2051年に完了」と発表していますが、あまりにも非現実的です。「一体どんな計算をしているのか!」と腹立たしくてなりません。
 廃炉作業に従事している労働者は1日約4500人。1号機の建屋では、がれきを撤去し、その下にあるプールから使用済み核燃料を取り出す作業をしています。こうした作業のすべてをロボットなどによる遠隔操作によってできるわけではありません。どうしても「人の手」が必要な作業があります。当然、高線量下の作業です。全面マスクに防護服を着用し、真夏でも作業中に水を飲むことができない過酷な労働環境。多くの作業員が、がんの発症、心筋梗塞、脳梗塞で倒れており、死者も出ています。
 ところが東電は作業中の被ばくとの因果関係を全く認めていないのです。辛うじて労災が認められたケースもありますが、裁判に訴えても労働者側が勝った事例は一つもありません。国と東電の圧力に、司法が屈しているのです。国家主義と戦争態勢づくりが横行する政治の下では、「三権分立」はもはや過去の幻想にすぎないのでしょうか。
 大阪万博で大手ゼネコンは困難な工事を拒否して、中小の業者に押し付けていましたが、福島第一原発の廃炉作業で行われているのは、もっと露骨で非人道的です。東電は危険な作業は下請けに出しており、下請け、孫請けした業者がさらに下請けに出すという複雑な雇用構造になっています。
 特に最近では、「安価な使い捨ての労働者」として外国人労働者を大量に雇用しています。彼らが病気やケガをしたときに、十分な保障がなされるのだろうかと心配でなりません。日本人の労働者には、彼らを守っていく闘いが求められているのではないでしょうか。

 こども甲状腺がん裁判
 本来、子どもの甲状腺がんは極めて稀で、100万人当たり年間1~2人が通常です。にもかかわらず福島県では現在までに361人が発がんし、303人が手術を受けています。旧ソ連のチェルノブイリ原発の事故後、ニュースなどで現地の子どもたちの首にネックレスのような手術の傷痕が残っているのを見ましたが、甲状腺がんと放射線被ばくとの因果関係は明々白々です。
 しかしここでも、国と東電はそれを否定。「本来なら一生症状も出ず、命に別条もない、つまり放置してもよいがんまで見つけ出す過剰診断」などと非科学的な反論を並べ立て、患者たちに補償を行わないどころか、甲状腺がん検査の縮小・中止を方針化しようとしているのです。
 患者たちの中には、がんの再発や肺への転移が見られます。1巡目の検査で問題なかった子どもが、わずか2年後には直径35ミリの大きな腫瘍が見つかったという例もあります。しかし国が発信する虚偽をほとんどの福島県民が信じ込まされているのが現実です。患者たちは周囲から「ウソつき」「デマ」などと攻撃される中で、声を出せずにいます。本来患者の味方であるべき医師も、必ずしもそうではありません。国の言い分にとって不都合な検査結果が出れば、データの解析方法を変更するなどして隠ぺいしています。そういう中で、7人の原告が健康被害の責任を問うて立ち上がった「こども甲状腺がん裁判」を何としても支えていかなければなりません。7人の原告の孤立を許してはなりません。
 各地で福島の子どもたちのための保養キャンプが行われていますが、そこに子どもを連れてきたお母さんから、事故後の福島は「放射能」という言葉が「禁句」とされる閉鎖的で抑圧的な社会になっているという話を聞きました。

 被爆二世だった弟の死
 最後に私ごとで恐縮ですが、8月5日に私の弟が他界しました。69歳でした。父親が長崎で被爆しており、私たち姉弟は被爆二世です。弟は40歳で白血病を発病しました。骨髄移植も検討したのですが、最も可能性が高いはずの私と弟のHLA型が適合せず、諦めざるを得ませんでした。
 その後、数年にわたる抗がん剤などによる過酷な治療をへて白血病は一旦克服したのですが、重い後遺症との闘病生活が続きました。血小板が少なくなって出血が止まらなくなり、脾臓、胆のう、肝臓の一部を摘出する手術も受けました。手術が終わって医師から、摘出した臓器を見せられましたが、普通であれば握りこぶし大の脾臓が肝臓以上の大きさに肥大し、肝臓はどす黒く変色して末期の肝硬変になっていました。
 高額の医療費、無収入、一家離散。弟は生活保護を受けながら、小さなアパートで一人孤独と忍耐の後半生を強いられました。そして文句の一言も言うことなく、最後は静かに従容として息を引き取りました。見送ったのは私たち夫婦二人だけでした。
 無口な弟が普段何を考えていたのかは分かりませんが、彼は絶対に「原爆」という言葉を使いませんでした。「あれ」と呼んでいました。今となってはそこに弟の無念の思いが込められていたのではと感じざるを得ません。(当間弓子)