
主治医の死去 隔離・拘禁医療と闘って
もう6年前になるが、私の主治医だった精神科医師の星野征光氏が亡くなった。死去の5カ月前に開催された講演会・交流会の追悼文集をこのたび入手したが、発刊からも5年が過ぎており、知らなかったとはいえ、星野先生に申し訳ない気持ちでいっぱいである。
星野先生は京都府立医大の時に学生運動に参加。精神科医になってからも精神病患者の「隔離・拘禁医療」に反対し、全国の精神科医共闘会議でも「精神病院解体」を掲げて活動された。
その後、大阪府高槻市にある光愛病院で勤務、院長職も経験された。全国にある精神病院の中には、儲け主義で牧畜業者(追悼文集の表現のまま)まがいの経営者が多い。ところが光愛病院の経営陣は非常に清貧な人たちで、言い換えると経営能力は全く無し。クソボロ(ママ)病院の建て直しが大きな課題となっていた。結局、関係者が出資して経営再建に奔走し、24時間の外来診療、夜半でも往診という過酷な毎日だったという。
病院ができれば、次に患者たちの入院期間をできるだけ短くし、外来につないでいく「一貫した医療」を保証するために、クリニックを作る必要があった。デイケアも併設させ、患者たちの居場所となった。そのクリニックが、私が通院していた「星のクリニック」である。
以上、星野氏の医師人生をあまりに簡略して記してしまったが、いつも明るい先生とはいえ、実際には苦労の連続だったろう。理念としての「精神病院解体」と、病院の院長・経営陣としての日々の現実。その矛盾と葛藤は相当なものがあったはずだ。
「隔離・拘禁」という日本の精神病院の実態に抗して、星野先生たちは「自由こそ治療だ」と訴えた。まずは患者と職員の「人間としての対等な関係」を確保して、「開放医療」運動に着手した。日本の病院とは医師を頂点とした「指揮命令系統」「権力構造」にある。医師の下に看護師、准看護師、看護助手、病舎婦。そしてその一番下に患者が置かれ、さらに精神病院では直接暴力的に接するのは医療資格のない「男性助手」である。
この構造では患者が最大の犠牲者であることはもちろんだが、「非人間的労働」を強いられる医療労働者自身も人権意識を奪われてしまい、「開放」「解放」されなければならない存在だ。光愛病院では労働組合を作って、この課題に解決の道を見いだし、各地の病院にも拡げていった。
日本精神医療病院協会という巨大な民間病院の組織は、ばく大な財力とその権力で、時として政治家のみならず、厚生省も動かし従わせることができる。虐待事件が相次いでも行政が本気で改善しようとしないのも、この壁が立ちはだかっているからだ。星野先生たちの良心的な医療運動や組合運動は、この巨大な体制・権力に比べると今は小さなものかも知れないが、これから必要とされる先進的なものだ。
社会防衛・秩序のため 隔離収容施設の歴史
1918年、「日本精神医学の父」と呼ばれた東京帝国大学の呉秀三医師は、私宅監置の精神病患者の惨状について「我邦十何万の精神病者は、実にこの病を受けたる不幸の他に、この邦(くに)に生まれたるの不幸を重ぬるものというべし」と国の施策を鋭く批判した。座敷牢などは一部の金持ちにできることで、庶民の患者は一日中陽のささない家の物置部屋や庭にこしらえた小屋に閉じ込められていた。
当時は世界的に見ても精神科医療は悪名高き「電気ショック療法」や「ロボトミー手術」しかない。前者は患者が暴れたり職員に従わない場合に懲罰的に使われることも多く、後者は脳の前頭葉白質を切り取ったり、破壊したりする手術である。ロボトミー手術は1935年にエガス・モニスが考案し、1949年にノーベル生理学・医学賞を受賞している。この手術を受けた患者の後遺症は、人格の変化や感情・自発性の喪失など、取り返しのつかない残酷かつ残忍なものである。
1950年、日本では精神衛生法が制定され、これにより私宅監置が禁止され、精神病院への隔離収容が国の方針となる。それが一挙に断行されたのが、1964年の駐日アメリカ大使ライシャワーが、精神病歴のある青年に重症を負わされた事件がきっかけである。あわてふためいた日本政府は、国家の威信にかけて「精神病患者=危険人物」として隔離を強行した。たちまち全国で30万床を超える病院が粗製濫造された。医師や看護師の数も少なくてもよい、設備内容も問われない、患者のためでなく「社会秩序、社会防衛」が目的の「収容施設」である。
この当時、精神病はほぼ治らない病気とされていた。患者達は収容と虐待、人間扱いされない絶望の中にあった。
薬の登場 精神病は不治の病ではない
1950年前後に革命的な化学物質(薬)が次々と発見され、これが精神病の治療に有効であることが発見された。1945年には躁うつ病(双極性障害)にリチウム。1952年には統合失調症にクロルプロマジン(日本には55年導入)。1956年にはうつ病にイミプラミン。
これらによって、精神科医療は薬物療法による近代精神医学へと大きく転換した。歴史的な革命的事件である。「不治の病」「閉じ込めておくしかない病」から治癒する病へ。あるいは完全治癒でなくともコントロールが可能となり、社会復帰実現への道も開かれた。患者にとっては黎明そのものである。
このように科学の発展が人間の幸福と解放に結実していく例として、「らい病」(ハンセン病)もある。明治時代までは「業病」「天刑病」(神仏から下された天罰・前世の悪行による報い)と言われ、家族に迷惑がかかると村を出て、「放浪らい」として生きる(死ぬ)しかなかった。1873年に癩菌がノルウェーのアルマウェル・ハンセンによって発見され、「らい病」は遺伝病ではなく感染症であると理解され、その後、日本では1931年「らい予防法」の下に強制隔離の時代に入る。
しかし1943年、スルフォン剤のプロミンがらい病に著効した。日本に入ったのが1947年でまさに歴史的朗報であった。もはや「不治の病」などではなくなったのだ。(つづく) 〔朽木野リン〕
