
支援スペクトラムの発想が広がれば K・Y
「障碍者」という言葉自体が差別用語。まったく同感です。
ただ、支援が必要な人/支援する人、という二元論も結局は一時的な言葉の言いかえで、差別に収束していくのではないかと思います。
理想は一元論ですが人間は多様。スペクトラム、あるいはグラデーションという発想に可能性を感じます。
介護では要介護〇などと区切っていますが(実際、行政ではどこかで区切らざるを得ないのでしょう)、「支援スペクトラム」という発想が広がればいいように感じます。何の支援(他者の支え)もなく生きている人間などいないのですから。
だれもが支援を必要としている モリモト タケル
368号の「扇状地」読ませていただきました。
一精神障害者として思いつくことを投稿させていただきます。
大阪の自治体でも多くのところで、障がい者と表現しているところがあります。
しかし厚労省など中央省庁では、これだけ議論になっているのに表現を変えていません。
おそらく、中央省庁の思いとしたら敢えて、障害者、という表現にこだわりたいのではないでしょうか。何にとっての障害か、今の資本主義社会にとっての障害、今の社会ではいらないもの、だから、この表現にこだわっているのではないでしょうか。
「扇状地」を書かれた方は、支援が必要な人、というところでいったんは落ち着かれたようですね。でも僕が思うのには、今の社会で「健常者」と呼ばれる人も、障がい者と呼ばれる人も、みんな何らかの支援が必要なのではないでしょうか。障がいを個性ととらえている人もいます。
何十年か前に日本の障害者政策は「隔離、収容、抹殺」という話を聞いたことがあります。基本的にその政策は今も変わっていないとおもいます。
未来社会で、「健常者」も障がい者も入り乱れて生活するようになれば、呼び方も自然と変わってくるのではないでしょうか。
