
琉球大の新城郁夫さんが、『世界6月号』に、「もし日本が憲法9条を捨てるなら、沖縄がこれをひきとり、日本と別れ、憲法難民とともに沖縄をつくり直す」と記されており、釘付けになった。
「そのときの日本は、クーデター後の軍事独裁国家以外の何物でもない。それは、法政治的な残骸であり、無残で危険そのものだ」「沖縄の人たちは、実に巧妙に法権利上の消失点に封印、不可視化されてきたが、これを可視化問題化できる法的プリズムは、憲法以上に存在しない。憲法に照らして初めて、沖縄の異常さが視界のなかに浮上する」「適用外とされた位置からこそ、9条において日米安保の異常さを問い、自らの生存権の基礎を見出す営みのなかにこそ、沖縄の人間の闘いの核心がある」「もし9条が改廃されるなら、沖縄が日本に復帰する意味はもはやかけらもない」と…。

憲法というものの見方というものを、心底教えられた気がする。新城さんは、その上で「憲法は、国民という枠内にとじられた法規範なのか」と問う。「憲法9条、そして前文は日本国民以外への誓約となっており、既存解釈の国民枠をその内側から解体する契機をはらんでいる。戦争放棄と戦力不保持は、日本国家の暴走を縛ると同時に、交戦相手と想定されうる全ての国家と国民に向けての宣誓であり、はじめっから国内の枠を越えてなりたっている」「だから、侵略戦争と植民地支配の被害を与えたアジアの人々や国を無視したまま、国内情勢(「国際情勢が変わった」も含め)に乗じて改廃することができないように憲法9条は書かれている」「過去の全ての戦争の口実に用いられる『自衛権』という虚偽をこそ、先制的にこれを禁じている点において世界に類例をみない法規範、もっともすぐれた不戦規定、戦力不保持の誓いとなっている」
そして、「憲法をプリズムとして日常現実を見る時、いかに異常な日常に私たちが埋没しているかが分かるし、新たな日常を取り戻していく契機もまた記されているのであり、現実に見合うように憲法を見直すべきだといった倒錯した違法性異常性に気づいてほしい」と…。
以上引用の要約だが、憲法についての新たな視点を得た気がする。「People」を、国体維持にとらわれた官僚たちによる「国民」への歪曲があったとしてもなお、憲法にはそれを内から解体する力と本質を内在しているとの指摘に、新たな力を得た気がする。
憲法破壊の高市政権との「闘いの武器」をいまひとつ得た。中3の時、夏休みの社会の宿題が憲法全文を書き写すことであったことを思い出した。その社会科教師の慧眼に、感謝しかない。(啓)
