プロレタリア独裁と社会主義
哲学者でフランス共産党員だったルイ・アルチュセールは、1976年、共産主義学生同盟(共産党の学生組織)の集会で行った問題提起の中で、「マルクスとレーニンにとっては、社会主義的生産様式なるものは存在しない。社会主義的生産関係、社会主義的法 …… などは存在しない。社会主義とプロレタリアート独裁は同一不二である」と述べています。つまり、社会主義とは「資本主義と共産主義の間の『過渡期』である」ということです。したがって「過渡期」であるところの社会主義は「力関係と、どんな《路線》をとるかによって、資本主義の方へ退行することも、停滞的な形態のうちで足踏みすることも、共産主義の方へ前進することもあり得る・われわれ自身の階級闘争とはまったく異なる・解読困難な・《転化した形態》で ― 階級闘争が存続するところの、本質的に不安定な時期である」(E・バリバール『プロレタリア独裁とはなにか』加藤晴久訳、新評論、1978年、242-243頁)と述べています。
彼はこのような主張によって、当時のフランス共産党が第22回党大会で、「社会主義への平和的かつ民主的な移行」が可能であるとしてプロレタリアート独裁を放棄したことにたいして、「それは社会主義そのものの放棄だ」と批判したわけです。その背景には、中国の文化大革命があったことは間違いありません。また社会主義にたいする「本質的に不安定な時期」という規定は、その後の東欧・ソ連の社会主義体制の崩壊によって、その正しさの一面が証明されました。ここで「一面」といったのは、「資本主義への退行」は証明されましたが、「共産主義への前進」は証明されなかったという意味です。
さて、私はこのアルチュセールのテキストを読んで、「はっ」と目がさめたような気がしました。それは彼の意図したところを離れてしまうのですが、「資本主義と社会主義の間にあるのは断絶ではない。両者の差異はグラデーションのように連続している」と捉えることができるのではないかと。実際に私的所有以外の所有形態が存在せず、経済活動はすべて市場に委ねられ、一切の計画性を排除した「純粋な資本主義」は存在しません。同じように、公的所有以外の所有形態が存在せず、市場あるいはそれに類する機能が全く存在せず、すべての経済活動が計画によって統制されているような「純粋な社会主義」も存在しません。つまり、資本主義と社会主義は共通の土台の上に併存しているのであり、より社会主義的になるのか、より資本主義的になるのかは「力関係」と「どのような《路線》をとるか」で決まるということです。
そのことに気付いていたのが「1917年のレーニン」でした。

第一次世界大戦とレーニン
「1917年のレーニン」はどのようにして生まれたのか。それは「1914年の秋、ヨーロッパの社会民主主義がことごとく『愛国路線』を選び採ったとき」であると、スロベニア出身の哲学者、スラヴォイ・ジジェクは述べています。ジジェクによれば、「1914年のショックは、アラン・バディウの表現を借りれば、一つの災厄だった。まさにそれは世界が消滅するカタストロフだった。進歩へのブルジョア的な牧歌的信仰だけでなく、そうした進歩と連(つる)んできた社会主義運動もまた、同様の災厄に圧倒された。レーニン自身(『何をなすべきか』のレーニンということだが)も、足許から大地が崩れ去る思いを味わった。… このカタストロフが、レーニン主義という出来事、第二インターの痼疾だった進歩主義史観にもとづく歴史主義を打ち砕くための道を切り拓いた。… こうした絶望の時を凌ぎ、ヘーゲル『大論理学』の精読をつうじて一回限りの革命的好機を感じとることができたレーニン、このレーニンが、まさにここで生まれた」(スラヴォイ・ジジェク『迫り来る革命 レーニンを繰り返す』長原豊訳 岩波書店2005年 3頁)と述べています。
「足許から大地が崩れ去る」ような絶望を味わったレーニンが取り組んだのがマルクスの史的唯物論(歴史的実践的弁証法)の研究であり、帝国主義の研究でした。その研究の過程を、『哲学ノート』と『帝国主義論ノート』を通して知ることができます。
中国の哲学者、張一兵によればヘーゲル『大論理学』の研究を始める前のレーニンは、「人間の社会的存在および社会的実践能力はその外的諸条件(自然の諸法則)によって規定されており、そうした客観的法則を実体化し、絶対的なものと見る」という哲学的唯物論の立場にとどまっていました。しかし『大論理学』の読解を進めていくうちに「個人の意志によっては動かすことができない社会歴史の法則も、また人間の能動的活動が作り上げたもの」であり、「共産主義という『自由の王国』」にあっては、この人間の意志によっては動かすことができない「外的必然性」(「見えざる手」が出現する経済法則)は必ず乗り越えられるべきものである、というマルクスの思想的核心に接近していきます。
レーニンが1914年11月1日付の「ソツィアル・デモクラート」で「日和見主義にうちまかされた第二インタナショナルは、死滅した。日和見主義を打倒せよ。『投降者』はもとより、日和見主義をも一掃した第三インタナショナル万歳」(大月版レーニン全集21巻「社会主義インタナショナルの現状と任務」28頁)と新たなインターナショナル(世界党)の結成を呼びかけたころ、彼はノートに次のような書き込みをしています。
「すなわち、世界は人間を満足させず、そして人間は自己の行為によって世界を変えようと決心する、ということである/核心:〝善なるもの〟は〝外的現実性の要求〟である。すなわち、〝善なるもの〟とは人間の実践=要求(一)と外的現実性(二)であるということである」(大月版レーニン全集38巻『哲学ノート』182頁)
このようにして世界を変革するのは「善なるもの」、すなわちプロレタリアートの革命的行動いがいにないということへの確信を深めていったレーニンは、満を持して第三インターナショナル(世界革命の党)を呼びかけたのだと思います。
第三インターの実践綱領は、一声で言えば「帝国主義戦争を内乱へ」ということだと思いますが、レーニンはそれを理論づけるために、帝国主義が資本主義の最高の発展段階であるのみならず、腐朽し死滅しつつある資本主義であり、帝国主義戦争が不可避であることを証明する必要がありました。

カウツキーは「背教者」か
だからこそレーニンは、「超帝国主義論」を提唱し、「愛国主義」に転落したドイツ社会民主党(SPD)の領袖であったカウツキーを「プロレタリア革命の背教者」として徹底的に批判しなければなりませんでした。しかし、本当にカウツキーはレーニンがいうような「背教者」だったのでしょうか。カウツキーは1915年4月、「ハインリッヒ・クノーの帝国主義批判」という論文を書いています。クノーは当時のSPD右派の代表的論客ですが、もともとは左派のマルクス主義者でした。
クノーは「党の崩壊か」という著書で、「帝国主義とは社会主義に導く資本主義の発展工程における必然的な段階」と規定し、SPD左派の「帝国主義を成長させる必要はないし、これを根絶させなければならない!」という主張は、「機械制工業のその初期」に「機械を打ち壊して、手工業に引き戻す」というのと同じ「たわごと」だと批判していました。(カール・カウツキー『帝国主義論』波多野眞訳 創元文庫1953年「ハインリッヒ・クノーの帝国主義論批判」40頁)。
クノーのように資本主義がカルテルやトラスト、シンジケートによって経済を組織し、その無計画性を除去していくことによって、「あたかもたんに一組の役人を他の組によっておきかえるように、労働者が資本主義を『のっとる』ことをいっそう容易にしつつある」(ラーヤ・ドゥナエフスカヤ『疎外と革命-マルクス主義の再建』三浦・対馬訳 現代思潮社 1964年 230頁)という見方をする者は、当時の社会主義者の中では珍しいことではありませんでした。クノーは帝国主義とは「歴史的に必然的なもの」であるとして、個々人にとってその発展方向が好ましいかどうか、それが個々人の道徳観にかなっているかどうか、あるいはそれが戦争を引き起こす原因となるかどうかといった問題はどうでもいいものと扱っていました。
これに対してカウツキーは、クノーの「歴史的必然性」とは、「単に帝国主義がそこにあるということしか意味していない」と批判します。そして「哲学者は世界をさまざまに解釈するにすぎない。だが重要なことは、それを変革することだ」というマルクスのフォイエルバッハ・テーゼを引いて次のように述べます。
「人は過去と未来の両世界の限界線、すなわち現在を生きるばかりでなく、またつねにこの二つの世界を生きているものなのである。人は単に認識する個体であるにとどまらず、同時に行動する個体でもある。彼は欲すると欲しないとにかかわらず行動しなければならないのだ …… だがこのことを実行するにあたっては、現に存在するものすべてが必然的であるといった単なる確信は全然役に立たない。この場合、その課題はむしろなにが彼にとって必然的なものであり、あるいはまたそうでないかということ、そして結局はなにが(彼にとって)有害なものであるかを発見するにある」(カール・カウツキー『帝国主義論』波多野眞訳 創元文庫 1953年 55頁)
ここでカウツキーはとても大事なことを言っていると思います。彼に「背教者」のレッテルを貼り付けて葬り去るのではなく、その言葉をいささかでも傾聴していたならば、その後、「革命の必然性」の名の下で横行した無数の暴虐(「有害なもの」)も少しは和らいだかもしれません。

進歩主義史観の限界
カウツキーは当時のイギリスを「近代化した重商主義」と呼び、帝国主義が資本主義のあらたな段階であることを認めませんでした。レーニンの帝国主義論に多大な影響を与えたホブソンは、イギリスが19世紀末から急激に植民地を拡大しているのは、従来の植民地政策とは全く違う「新帝国主義」であると規定しましたが、それはあくまで一つの政策にすぎませんでした。帝国主義とは「政策」に過ぎず、社会主義はまだ先のことと考えていたカウツキーやホブソンは戦争に反対しました。一方、帝国主義は社会主義前夜の「段階」とみていたクノーは戦争に賛成したのです。このように当時の社会主義者たちの帝国主義戦争にたいする立ち位置は一筋縄ではいかないものでした。
それでは段階論を採用したレーニンの立ち位置はどのようなものだったのでしょうか。『帝国主義論』の中でレーニンは次のように述べています。
「われわれの目の前にあるものは生産の社会化であって、決してたんなる『からみあい』ではないこと、私経済的および私有者的諸関係は、もはやその内容に照応しなくなっている外皮であって、この外皮は、その除去が人為的に引き延ばされるばあいには不可避的に腐敗せざるをえないものであり、また、比較的長いあいだこの腐敗状態をつづけることがありうる(不幸にして日和見主義の腫物の治療が長引くようなばあいには)にしても、しかし結局はかならず除去されるであろうと言うこと、が明白となるのである」(レーニン『帝国主義論』宇高基輔訳 岩波文庫1956年205頁)
レーニンはここで、私的所有にもとづく資本主義的生産関係という外皮と、発展によって社会化された生産力との矛盾について語っています。この外皮は破砕されなくてならない。それは社会主義へと置き換わらなければならない。それを引き延ばしているのは日和見主義(クノーのこと!)という「腫物」であるとして、クノーたちを批判したのです。
しかし、生産力が社会化していけば、必然的に生産関係も社会化していきます。それは「生産関係という外皮」が拡大していくということではないでしょうか。つまり外皮の除去が引き延ばされているのは、「日和見主義という腫物」のせいではなくて、資本主義自身にその原因があるとすれば、生産力と生産関係の矛盾の止揚はどこまでも先延ばしにされてしまうではないか。
つまり、「生産力の発展と生産関係の矛盾」という進歩主義史観(歴史発展の法則)にとどまっているかぎり、いつまでも現状を打開する糸口が見えないのです。むしろ問題となっていたのは、その進歩主義史観そのものを爆砕することだったのです。

ロシア革命は社会主義革命だった
そして、それは起きました。それがロシア二月革命です。二月革命はレーニンを進歩主義史観の呪縛から解き放ったのだと思います。そのことを端的に示している文章が、いわゆる「四月テーゼ」(「現在の革命におけるプロレタリアートの任務について」)でした。
全部で10項目からなる四月テーゼのなかの8項目目にはこう書かれています。
「八、われわれの直接の任務は、社会主義を『導入』することではなく、社会的生産と生産物の分配にたいする労働者代表ソヴェトの統制にいますぐうつることにすぎない」(大月版レーニン全集24巻6頁)
「社会主義を『導入』することではない」という言い回しは意味深長です。それは「遅れたロシアに必要なのはブルジョア革命であって、社会主義はまだ早い」とする時期尚早論への最もラディカルな回答でした。レーニンにとって社会主義は「導入」する必要がなかったのです。なぜなら、社会主義は「戦時統制経済(国家独占資本主義)」として目の前にあったからです。あとは、それをプロレタリアート(労働者代表ソヴェト)による経済統制に移せばよかったのです。
また別のところでレーニンは次のように述べています。
「…… 社会主義は、国家資本主義的独占からの、つぎの一歩前進にほかならない ……いいかえれば、社会主義とは、全人民の利益をめざすようになった、そしてそのかぎりで資本主義的独占ではなくなった、国家資本主義的独占にほかならないのである。/そこには、中間はない。客観的な発展の行程は、つぎのようなものである。すなわち、社会主義にむかって進まないでは、独占体(戦争はその数と役割を10倍にもした)から先へすすむことはできない」(大月版レーニン全集25巻「さしせまる破局、それとどうたたかうか」385頁)
 ここでレーニンははっきりと「社会主義とは資本主義的独占ではなくなった、国家資本主義的独占にほかならない」といい、「そこには、中間はない」と述べています。一方、同じ時期に書かれた『国家と革命』では、「共産主義に発展しつつある資本主義社会から共産主義社会への移行は、『政治上の過渡期』なしには不可能である、そして、この時期の国家は、プロレタリアートの革命的独裁でしかありえない」(レーニン『国家と革命』宇高基輔訳、岩波文庫、1957年122頁)と述べています。
「国家資本主義的独占」が共産主義でないことは自明ですから、それがプロ独期の経済体制を指していることも自明だと思います。つまりレーニンにとっては、社会主義もプロ独もその経済学的なカテゴリーはいずれも国家資本主義的独占であり、冒頭のアルチュセールの引用で示したとおり、両者は「同一不二」なのです。
ロシア十月革命はまぎれもない社会主義革命でした。それは世界中を震撼させました。何しろ帝国主義戦争の硝煙の中から、突如として社会主義が登場したのですから。しかも、ヨーロッパの先進資本主義国のプロレタリアートを飛び越えて、「遅れたロシア」の農民と労働者が社会主義革命に勝利したのです。それは「資本主義が十分に発達しなければ、社会主義へと移行することができない」というのは単なる思い込みにすぎないことを証明したのです。

レーニンの致命的な誤り
しかし勝利した革命は、その後、惨たんたる経過をたどりました。その原因を反革命干渉戦争やそれにつづく国内戦(1918―22)にだけに求めるわけにはいかないと思います。レーニンとボルシェビキは致命的な誤りをいくつも犯しています。
すでに述べたように、レーニンは戦時統制経済をプロレタリアートの統制の下におけば、社会主義は可能であると考えていました。しかし、戦時統制経済とは政治的には軍事監獄です。監獄の主人がかわっても、それが監獄であるいじょう、大多数の住民に対する支配と抑圧のための暴力装置であるという本質は変わりません。
またレーニンはプロレタリアートによる経済統制は、「監督と簿記掛」がいれば可能になると考えていました。しかし、それまでの私企業が国営企業にかわったからとと言って、誰でも企業を経営できるようになるわけではありません。国家の経営となればなおさらのことです。無能な経営者が企業を統治しようとすれば、おのずと強権にたよるしかありません。実際に革命政権が必要としたのは「監督と簿記掛と銃殺隊」だったのです。
さらにレーニンの致命的な誤りは、小商品生産者(農民)は「小ブルジョア的な雰囲気」でプロレタリアートを堕落させ、ブルジョアジーを復活させるものだと決めつけていたことです。レーニンは「共産主義内の『左翼主義』小児病」で「階級を廃絶することは、地主と資本家を追い出すことだけを意味するものではない。小商品生産者を廃絶することも意味している」(大月版レーニン全集31巻29頁)と述べています。小商品生産者=農民の廃絶! このように特定された住民集団の抹殺を合理化する思想が人類にどれほどの惨禍をもたらしたことか! 『共産主義黒書』(1997)の共著者のひとり、ステファヌ・クルトワは、社会主義体制あるいはその勢力による犠牲者を総計するとその数は1億人にのぼると算出しています。

市場と社会主義
さて、ロシア革命の原動力であったクロンシュタット軍港の水兵(そのほとんどが農民)が反乱を起こした時(1921)、さすがのレーニンも戦時共産主義(1918-1921)の下で農民から収奪を続けるのは限界に達していることを認めざるをえませんでした。そこで、この反乱を徹底的に鎮圧した後に、戦時共産主義から、部分的に市場経済を容認する新経済政策=ネップ(1921-28)に転換します。ネップは短期間で終了しますが、社会主義下で市場経済を導入する道が実践的に開かれたことによって、その後の社会主義の可能性は一挙に拡大したと思います。
例えば、ポーランドの自主管理労働組合「連帯」の経済顧問だったベクシャクは1970年代に次のように述べています。
「私見によれば、あらゆる社会主義経済は計画経済でなければならない。同じく、あらゆる社会主義経済は、市場的あるいはパラメトリックな諸形態を何らかの形で実践的において適用しているし、また適用しなければならない。すなわち、管理は決して完全に指令的ではなく、そのうえ、分権度は国民経済の個々の部分で様々なのである 」と。そしてこうした市場は「最も広範囲に適用された場合でさえ、社会主義経済の計画性を脅かすことはない」と付け加えています(『経営する社会 ポーランド経済体制の理論分析』岩田昌征訳 東京大学出版会1981年91~92頁)。ベクシャクの言うとおりだとすれば、すなわち市場を導入し、「指令一辺倒」ではなく企業の自主性(分権度)を認めることができれば、「銃殺隊」なしで、社会主義を運営することができることになります。

コミュニズムは可能か
そうすると重要な疑問が浮かんできます。こうした社会主義は共産主義(コミュニズム)に移行することは可能なのか、ということです。言葉を換えると、共産主義(コミュニズム)の基本命題である生産手段の私的所有の廃止という問題を解決できるのか、という疑問です。
この疑問へのいくつかの回答を紹介したいと思います。
アナリティカル・マルクス学派のジョン・E・ローマーは、この核心問題を次のようにバッサリと切り捨てます。「社会主義者たちは公的所有を物神化してきた。公的所有が社会主義の必要条件とみなされてきたのである。しかしこの判断は間違った推論にもとづいている」と。彼の考える社会主義とは「自己実現と幸福」「政治的影響力」「社会的地位」の三つにおいて機会の均等が実現されている社会です。どのような生産手段の所有形態が最適なのかは、「三つの機会均等」の観点から考えてみるべきだというのです。
アナーキストで文化人類学者のデヴィッド・グレーバーは、「コミュニズムを、『各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて』という原理にもとづいて機能する、あらゆる人間関係」をさすものとすると、「なんらかの共通のプロジェクトのもとに協働しているとき、ほとんどだれもがこの原理にしたがっている」と述べています。ここで彼が取り上げたコミュニズムの原理は、マルクスが「ゴータ綱領批判」で述べたものと同じものです。
グレーバーは、こんなたとえ話を紹介しています。「水道を修理しているだれかが『スパナをとってくれないか』と依頼するとき、その同僚が『そのかわりになにをくれる?』などと応答することはない」と。こうしたコミュニズムこそが「社会を可能にするものなのである」のであり、それを「基盤的コミュニズム」と彼は呼んでいます(デヴィッド・グレーバー『負債論』酒井隆史他訳、以文社、142 143 146頁)。 
「スパナをとってくれ」と頼まれた人が、「そのかわりになにをくれる?」と応じないのはなぜか。グレーバーは、「人間は元来、共感する存在であり他者とコミュニケーションし合うものであるがゆえに、わたしたちは、たえずたがいの立場を想像してそこに身を置き、他者がなにを考え、なにを感じているかを、理解しようと努めなければならない」からだと言います。グレーバーは、人間が行っている労働の大半は他者に対する「配慮」(ケアリング)であると述べています。

世界を変えるために
問題を整理してみましょう。アルチュセールは社会主義とプロ独は「同一不二」であり、それが共産主義へ前進するか、資本主義へ退行するかは「力関係」と「路線の選択」によって決まると述べました。まさにロシア革命がそのような過程だったのです。レーニンが四月テーゼで述べたのは、資本主義による生産の社会化によって社会主義は既に目の前に存在しているということでした。それはつまり、「社会主義はいつでも可能であり、それが現実のものとなるかどうかは、ひとえに人びとの選択にかかっている」ということなのです。
アルチュセールもレーニンも共産主義の原動力は、未来へと前進する階級闘争にあると考えました。これにたいしてグレーバーは、コミュニズム(共産主義)は未来社会のことではなくて、いまある社会を成り立たせている基盤だと考えました。こうした基盤的コミュニズムを可能にしている根拠は、人びとが持っている他者への「配慮(ケアリング)」や「共感」なのです。
世界はいま、人びとの恐怖と憎悪によって分断と対立を深めています。私は、こうした閉塞状況を打ち破るためには、人びとの闘争や運動の中に「ケア」や「共感」に基づく政治思想を確立することが必要なのではないかと感じています。(茂木 康)