
「つぶしてしまえ鬼ケ島」
「最後まで桃太郎の歌聞いてみた 四番五番はトランプの歌」(朝日歌壇:2026年4月)
遅めのさくらの咲く4月のはじめに、こんな詠を見つけた。「桃太郎」の四番、五番ってどんな歌だったっけ。そういえば、幼い頃の絵本は、昔話『ももたろう』から始まった、私たちの時代。「桃太郎の歌」を思いだそうとしたが、どうも四番も五番も思い出せない。父、母、祖母からも教えられなかった。
『ももたろう』の四番は、「そりゃ進め、そりゃ進め、一度に攻めて 攻めやぶり つぶしてしまえ 鬼が島」…。五番は「おもしろい おもしろい のこらず鬼を 攻めふせて 分捕物(ぶんどりもの)を えんやらや」とある。ちなみに、六番は「ばんばんざい ばんばんざい お伴の犬や 猿 雉は 勇んで車を えんやらや」である。
トランプと、「桃太郎」
進んで進んで、攻めて、攻めて攻めまくり、鬼どもを潰してしまい、面白い、面白い、残らず分捕ってしまい、面白いとする。お伴の犬や猿や雉とともに、ばんざい、ばんざいである。なんだ、これは。「最後まで聞いて」みた桃太郎の歌、四番、五番、六番の桃太郎は、なるほどトランプなのだ。ベネズエラへ、イランへ、なんの理由もなく侵略戦争行為に手を染めたトランプだ。
さらには、「西半球は俺のもの」と言わんばかりに、キューバへも侵略しようとしているトランプだ。お伴の犬は、ひょっとしたら高市首相になるのだろうか。そうだ、トランプに抱きつき、抱擁を交わし合いながら、「世界中に平和と繁栄をもたらせるのはドナルドだけ」と持ち上げた高市早苗首相だ。猿や雉はどうなのだ。高市政権を取りまく連中か、それとも…。
芥川の「鬼ケ島」
芥川龍之介に、『桃太郎』という短編小説(1924年)がある。これは、一般的な「桃太郎」の昔話とは一線を画する。芥川が、この作品を通じて表現したのは、当時の日本社会や帝国主義そのものの風刺であり、単なる児童向け物語では全くない。深い社会批評を含んでいる。
物語の舞台となる鬼ケ島は、昔話で描かれるような恐ろしい場所ではない。芥川版『桃太郎』では、自然豊かで平和な楽園のように描かれている。鬼たちは美しい島で、踊りや琴の演奏、詩の朗読を楽しみ、争い ごととは無縁の日々を過ごしている。家族と共に暮らし、自然と共存するその生活は、平穏そのものであり、さらに、鬼たちは子どもたちに「人間は怖い生き物だから、近づかないように」と教え、人間の存在を恐れていた。
桃太郎は、どうにもならない悪人である。家来になった犬、猿、雉も互いに軽蔑しあい、じつに仲が良くない。利益だけを求め、桃太郎に従う。桃太郎は彼らにキビ団子を「半分だけ」渡し、鬼退治に協力させいく。桃太郎一行は互いに反目しつつも、桃太郎が提示する「鬼の財宝」という報酬に釣られてしまい、鬼ケ島へと進んでいく。
かれらが征伐にむかった鬼ケ島は、といえば、世間の思っているような酷いところでは全くなく、実は美しい「天然の楽土」…、鬼たちは平和をこよなく愛して暮らしているのだ。桃太郎は、「日の丸」の扇を打ち振って、犬、猿、雉に号令をかける。「進め!進め!鬼という鬼は。見つけしだい一匹残らず殺してしまえ!」
桃太郎の暴虐
この、いわば「桃太郎部隊」は、平和な鬼ケ島を一方的に侵略し、逃げまどう鬼を追いまわし、犬は鬼の若者を噛み殺し、雉は鋭いくちばしで鬼の子どもらを突き殺す。猿は猿で、われわれ人間と親類同士の間だけに、「鬼の娘を絞め殺す前に、必ず陵辱を恣にした」というのである。(注:恣=ほしいまま)
ともあれ、鬼ケ島の酋長は、平和な島がなぜに侵略され、こうも暴虐の限りをつくされたのか、まったく合点がいかない。おそるおそる、桃太郎にその訳を問うのである。桃太郎は悠然と答える。「日本一の桃太郎は犬、猿、雉の三匹の忠義者を召し抱えたが故に、鬼ケ島へ征伐に来たのだ」…。理性も、理屈も、ヘチマも、何もありはしない。なるほど、トランプなのだ。桃太郎は犬、猿、雉の三匹と、人質に取った鬼の子どもに宝物を乗せた車を引かせながら、得意気に故郷に凱旋をする。
その後はどうか。ここで桃太郎の話は、終わらない。「桃太郎は、必ずしも幸福な一生を送った訳ではない」とされる。鬼の子どもは、一人前になると番兵の雉を噛み殺し鬼ケ島に逃げ帰り、のみならず鬼ケ島で生き残った鬼たちが、しばしば海を渡ってきては、桃太郎の家に火をつけたり、かれの寝首をかこうとしたりした。いわば、テロ事件の続発である。
さらには「寂しい鬼ケ島の磯には、美しい熱帯の月明かりを浴びた鬼の若者が五人六人、鬼ケ島の独立を計画するため、椰子の実に爆弾を仕込んでいた。…黙々と、しかし嬉しそうに、茶碗ほどの目の玉を赫かせながら」と、芥川版『桃太郎』の終盤には、我が目をうたがうようなシーンが描かれる。新しい桃太郎が次から次へ、桃の実から生まれてくることを暗示しているのだ。
そして、この暗澹たる物語は閉じられる。
桃太郎は正義なのか
芥川龍之介の『桃太郎』は、「はたして桃太郎は、正義の存在なのか」という問いを投げかける。平和に暮らしていた鬼たちを侵略する桃太郎は、加害者そのものだ。そして、鬼たちは被害者として同情を誘う存在である。支配や侵略の不条理が、浮き彫りにされる。帝国主義批判、侵略、植民地主義批判そのものではないか。桃太郎の鬼退治は、侵略の象徴そのものである。
鬼の首長から「なぜ征伐をしたのか」と問われた際の、「征伐したいから」という理不尽そのものの理由は、侵略行為の本質を示している。今日、トランプのベネズエラ、イランへの侵略戦争行為そのものだ。「正義とは何か」を、私たちに問うている。

崩される世界像
鬼ケ島に対する桃太郎の行為は、他国への一方的な侵略を思わせ、桃太郎の行動は、物語内での「正義」と「支配」の構図を通し対立の無意味さと、その本質を描く。支配の名目で行われる力の行使が、他者の権利や尊厳を簡単に無視していく。帝国主義そのもの、他国への帝国主義支配そのものが、新たな反発と対立を生み出すことを示している。
帝国主義と帝国主義戦争への批判である。統治者や支配者そのものへの批判である。桃太郎は鬼ケ島を征服し降伏させた後も鬼たちの反抗を恐れ、圧政を続ける。桃太郎の姿は、権力を握り、その権力を保持するために、厳格な支配体制を強いる独裁者や支配者の姿である。
なんという時代であろうか。これほど、充分に老い捻くれてしまったのか。高市政権のもと、いささかの希望も抱いてはいけないと思いながら…。救いはないのだろうと気どって嘯いていてみても、韜晦するほどの能力も力も無い。だが、しかし、不安の質量が余りにも大きく膨らみすぎ、事態は突き進み、手の施しようもなくなってきているのか。
自分なりに「こしらえてみたい」と思い、ささやかに持ち続けてきた「世界像」は、かすかに、そしてぼんやりと、おぼろげなものになり消えそうで消えない。使い物にならないほど壊れ始めているのか。このところ、驚きの連続である。「戦後」が、次々と壊れていく。その速度に驚愕する。平和憲法と戦後民主主義が、ものの見事に憎まれ、蔑まれ、ドロドロにされている。トランプを「平和の使者」などと呼ぶ高市政権によってである。(嘉直)(つづく)
