
明治維新以降
1871年(明治4年)、日本全国で廃藩置県が行われ、薩摩藩は鹿児島県となった。沖縄は1879年(明治12年)に、明治政府は琉球藩を廃止し沖縄県を設置した。強権的な軍・警察の派遣によって首里城は明け渡され、藩王・尚泰は東京に移住させられた。「琉球処分」である。これにより清国と日本の関係も一挙に悪化。ちなみに北海道は二転三転した上で1886年にようやく北海道庁が置かれた。
廃藩置県からわずか2年後、政府・大蔵省は1873年に「黒糖自由売買許可」を全国に出したが、黒糖利権を独占したい鹿児島県は、それに対抗して官製の「大島商社」を作り、実質的に専売を始める。このような鹿児島県の身勝手な政策は、長州の木戸孝允をして「鹿児島は半ば独立国のごとし」と嘆かせたと言われている。
このようなさまざまな対立はやがて1877年(明治10年)の西南戦争に至っていく。奄美の人々は黒糖の自由売買を請願して、55名の代表が鹿児島県に訴え出たが、死刑囚用の獄に入牢させられ、過酷な処遇で無事に帰還したのはわずか23人だった。日本は明治維新をきっかけに急速に近代化を進めていくが、奄美では大きな犠牲を強いられて近代化もはるかに遅れた。1879年(明治12年)に奄美は鹿児島県大島郡となる。鹿児島の初代県令(現在の県知事)の大山綱良は「奄美は一等の産物を有しながら、一等の貧民に属す」と語っている。
日本列島の地図に鮮明にわかるが、地理的にも海流的にも文化的にも、トカラ列島以南から先島まで、つまりその中心にある奄美も琉球も沖縄県に属するのが当然ではないかと思える。それが薩摩藩の利害と支配の歴史をそのまま「県境」として残し、奄美を鹿児島県に包摂しているのはどうなのだろうか。
昭和になってからようやく、他県に例を見ない奄美の貧窮に対して、政府が救済策「大島郡振興計画」を実施した。他県並みに近づけたのは1940年頃で、明治維新から約70年間も奄美は植民地的な搾取の下に置かれ続けたのである。
アメリカ占領下の復帰運動
1945年、米軍による名瀬大空襲で街の90%焼失。
1945年8月の敗戦で日本が植民地としていた台湾や朝鮮半島はもとより、「固有の領土」であった北方領土や小笠原諸島、沖縄県や奄美群島などが米国やソ連の統治下に置かれた。「固有の領土」という表現を政府はよく使うが「もとからあるもの」という意味では、竹島や尖閣諸島はもとより、北海道でさえも明治維新時に「日本領」といえるのは南端の松前藩だけであったという事実を見れば、納得のいかない政治的表現だ。
1946年、米国は大島支庁内に米軍政府を置き、奄美住民と「本土」との航海を全面的に禁じた。食料や日用品が米軍放出物資で十分に供給されず、食料は常に不足し、危険な密航という手段が取られたり、ソテツの芯や実、海産物、浜辺のビル(ネギ状の小さな球根)、ヤマユリの球根を食べたりして住民たちは飢えをしのいだ。
ついに餓死者を出し、学校では欠食児童が増加したことへの怒りから、米軍の占領に抵抗して、奄美では全郡上げての復帰運動が始まった。郡民大会は26回開催され、断食闘争や百万人署名運動(全国にいた奄美出身者も参加)が取り組まれた。そして1953年12月25日、待望の日本復帰が実現した。
復帰協議会議長の泉芳朗は次の詩を詠んだ。
今ぞ祖国へ
流離の日々はおわった 苦難のうず潮は去った
ながい空白の暦を閉じて この日にあおぐ 日の丸の空(中略) いまぞ 祖国に帰る
私はこの詩を見てさまざま思うことがある。江戸幕府以来の400年の植民地的支配、特に幕末―明治の70年の過酷な奴隷的搾取。それ程の犠牲を経ても全島をあげて日本を「祖国」と語る理由がわからない。「天皇制教育によるものだ」と済ますのは、ヤマトンチュの無神経・無理解に思えるのだ。
沖縄では
沖縄の日本復帰は1972年、奄美に19年遅れての復帰だった。米政府は1949年(昭和24年)に沖縄の大規模かつ恒久的な基地建設計画を発表し、既に広大な土地や旧日本軍の飛行場などが米軍基地に造り変えられていた。復帰のハードルの高さが奄美とはまったく違うのだ。
沖縄でも日本復帰の闘いは激しく闘われた。米軍兵士の暴力(何よりも性暴力)のふるまいなど、その苦難は敗戦から80年たっても変わっていない。奄美の祖国復帰要求署名が99.8%の時に、沖縄では72%しか集まらなかったという。その理由は次のように説明されている。明治政府に琉球処分といった屈辱を与えられるも、元々は独立した「琉球王国」であるという誇りの上に、「復帰ではなく沖縄の独立を」という声が多かったからだと。
数年前、「本土」から派遣された警備の警官が、闘う沖縄住民に向かって「土人」「シナ人」と罵倒した。前者は「文化的に遅れた劣等民族」という意味だろう。後者は中国人の蔑称で、「琉球人なんて純粋な日本人ではない」という意味だろう。この戦前からの差別認識が今も生き、琉球弧は属国であり、日本を守る盾となって当たり前というのが、多くのヤマトンチュの潜在意識としてあるのだろうか!
「くに」って何? 「民族」って何? 「歴史」って何?
奄美小学校の校長だった麓純雄氏は自著『奄美の歴史入門 奄美子たちに贈る』の中で、「奄美はいつから『日本国』になったのでしょう」と問いつつ、以下のように答えている。
「日本という国が4世紀にできた大和朝廷の勢力拡大で国が形成されたとしたら、奄美が日本国に入るのは厳密に言えば明治時代からです」「しかし学校で教える古代から平安時代までは、京都や奈良を中心とする近畿地方の『一地方史』という見方もできます。教科書は政治の中心地しか主に書いてありません」
麓氏は物事を多角的・客観的に捕らえる視点の重要性を語っている。私は奄美とヤマト(日本)の対立構造としてここまで記事を書かざるを得なかったが、そもそもヤマト自身が単一民族ではないし、戦争と略奪を重ねる中で成立していった「くに」であることを忘れてはいけない。
私ごとになるが、信州安曇野のわさび園をハイキングしたとき、小さくて古びて汚れた石碑が倒れそうになりながら立っていた。そこには「ヤマトから坂上田村麻呂に率いられた軍がやってきて、私たちの首長を殺し、私たちの土地が奪われた」とあった。坂上田村麻呂は平安時代初期の征夷大将軍である。つまりすでに「古代」ではない平安時代でも、大和朝廷は日本列島の中心にある信州の地をようやく征服したにすぎなかったのだ。安曇野わさび園の入り口に置いてあったきれいなリーフレットにも坂上田村麻呂のことが書いてあったが、こちらは勝者の英雄として描かれており、支配者の立場からの記述だった。それとは対照的に、あの古びた石碑には滅びた民衆の立場が刻まれていた。
思いつくだけでも、東北のエミシ、北海道のアイヌ、九州のクマソ、山陰の出雲 …… 時代は違えども、こうした人々や「くに」や民族を征服し、その土地を奪いながら日本(ヤマト)が成立していったのだ。血は混じり、文化が融合し、また新しいものが生まれる。それが人間の歴史だ。重要なのはそこに優劣などないということ。まして「土人」なるものは世界のどこにもいない。
奄美は辺境ではない
麓氏は奄美の人たちが誇りを持って生きられるように、自著の最後を次のように締めくくっている。
「奄美については日本の中心部から遠く離れた『辺境』という考えではなく『境界』という考えが大事なのです。端っこにあって後れていたということではなく、そういう地域だからこそ、独特の自然(我が国最北の亜熱帯地域)があり、北方と南方の文化が融合し、独特の歴史(例えば稲作よりも海が中心、南方物産交易の中心地、他地域にない砂糖産業)があるのです」。(おわり)
【参考文献】
麓純雄『奄美の歴史入門 奄美子たちに贈る』(南方新社、2011年)/喜山荘一『奄美自立論。四百年の失語を越えて』(南方新社、2009年)/『司馬遼太郎 街道をゆく27』(朝日新聞社、2005年7月31日発行)/NHK出版 編『田中一村作品集[増補改訂版]』(NHK出版、2013年)/宮本常一・山本周五郎・楫西光速・山代巴『日本残酷物語 2(平凡社ライブラリー)』(平凡社、1995年)
