今年の梅雨入りは6月4日。6日に予定した「明石戦跡めぐり」は、天気を心配したが、曇天とまずまずの天候に恵まれた。
ピースネット明石が主催する「あかし戦跡めぐり、ピースウォーク」は、通算16回目になった。明石駅前に集合し、10時スタート。ガイドは、16年間ずっとお願いしている今年87歳の牧野満徳さん。
まず明石駅から南下、いちばん賑わう商店街「魚の棚」の西を通り、明石・淡路を結ぶ連絡船、子午線ラインの前から材木町の岩屋神社に着いた。神社は、空襲で本殿や境内の松の木も焼失、V字二股になった大きな榎だけが残った。あたり一帯の木造住宅も、焼夷弾により丸焼けになったと説明を受けた。「戦災復興の碑」が、本殿のそばに立っている。

焼け焦げた地蔵尊
西へ向かい日富美町を通り、浄土宗の本誓寺へ。ここも丸焼けになり、焼け焦げた地蔵尊がある。そのあとの宝林寺は、木像の本尊は防空壕に避難させ、焼失を免れた。次に行った本立寺は建物疎開で本殿が破壊され、戦後に復旧した。15代の明石藩主、松平斉宣の葵御紋の墓がある。
次は明石で一番古く大きなお寺、大観町の天台宗善楽寺、圓珠院には宮本武蔵が作ったという枯山水の庭があり、平清盛ゆかりの寺、戒光院には清盛供養の五輪塔がある。5代目明石藩主の松平忠国が建てた「明石入道」の碑がある。光源氏古跡の「明石之浦之濱之松」があり、明石出身の作詞家・船橋栄吉の唱歌「牧場の朝」の歌碑がある。源氏物語の主人公、光源氏が「明石の上」に会いに通ったという蔦の細道を抜け、明石川の左岸に出る。ここにも、源氏物語ゆかりの歌碑がある。

赤い火に町が燃えた
川沿いに北へ向い、国道2号、大観小学校南に、防空壕代わりに使われた地下道があり、86歳の矢野蓉子さんから、5歳の時の戦争体験を聞いた。この近くに住まわれ、1945年1月最初の空襲の時は、防空壕に入ったという。「辺り一面土煙で何も見えなかった」「怪我した人を戸板で運んでいた」…。「7月の空襲の時は、疎開していた神戸市神出から明石の町が燃える赤い火を見ていた。怖くてよく夜泣きをし、親を困らせた」と話した。
西に向かうと山陽電車の西新町駅近くに、山陽電鉄会社と労働組合が建てた「空爆犠牲者之碑」がある。山陽電車に勤める田中一吉さんから、碑の由来を聞いた。「6月9日、明石車両工場が空襲にあい、動員学徒を含め31名が亡くなった」「1977年に、『労働組合で犠牲者全員の名前を明らかにしないと、戦後にはならない』と決議した」「加古川、高砂はもとより、岡山や愛知までを調べたが、どうしても1人だけ分からなかった。『氏名不詳』と、30人の名前とともに刻んだ」とのこと。「社内の新人に説明し、市内の小中学校にも話に行っている」と話した。

高校新聞部8人も参加
牧野さん、矢野さんら80代の戦争体験者、市内の高校新聞部の1年生8人、平和学習のため小学校の教師も参加、総勢60人と関心の高さを実感した。
いまも世界では戦争が絶えないが、身近には戦争を想像すること自体が難しい。高齢になった戦争体験者から、実際に見聞きした話、今も残る慰霊碑や戦禍を示す事物の説明を聞き、「戦争は絶対にしてはいけない」と感じて欲しいと始めた企画は、着実に実を結んでいる。(江戸)