6歳のときに福島県で原発事故に遭い、新潟県に避難。大学生となった現在、「原発事故は終わっていない、過ちをくりかえしてはならない」と訴えている曽根俊太郎さん。いま必要なのは「自分の思いを語る場所」だという曽根さんを招いた学習会が大阪府高槻市内で開かれた(6月7日、主催はたかつき保養キャンプ・プロジェクト事務局)。

保育園で被災 事故直後から自主隔離
 曽根俊太郎さんは2004年、福島県で生まれた。現在22歳。県立六日町高等学校を卒業、現在は京都産業大学法学部で学んでいる。2011年の福島第一原発事故当時、曽根さんが住んでいた街は福島第一原発から直線距離で60キロのところだった。
 2011年3月11日、東日本大震災が発生した時、6歳だった曽根さんは保育園にいた。大きな揺れがきて部屋の中のものは倒れ、泣き出す子もいた。先生の指示で園庭の真ん中にみんなで避難した。その日は珍しく雪が降った。すごく寒かったので、先生が講堂から持ってきた布団をかぶって温まっていたのを覚えている。迎えに来た父親の車の中から被災した街を見、子ども心に「すごいことが起きたんだ」と感じた。
 原発事故が発生した時に、曽根さんの両親はすぐに部屋の窓の隙間などを塞いで外気から遮断した。曽根さんと兄は家の中に閉じ込められた。両親はチェルノブイリ原発事故の知識があり、小出裕章さんの本を読んでいた。原発事故後に何が起き、何が危険なのかが分かっていた。
 曽根さん兄弟が一週間ほど自主隔離されていた間も、余震が続いておりダイニングテーブルの下に布団を敷いて過ごした。テレビは緊急地震速報を流し続けており、「直ちに影響はない」という記者会見の言葉が繰り返されていた。自主隔離している間は、ヨウ素剤代わりにワカメやコンブを食べさせられた。一方、曽根さんの街には避難指示が出ていなかったため、多くの子どもたちが親たちと共に給水車の水や支援物資をもらうために1〜2時間も外で並んで待っていた。このとき原発事故で発生した放射性プルームが曽根さんの街に向かって流れ込んでいた。放射能に関する知識が無かったために、被ばくした子どもたちがいた。

新潟へ避難 木内みどりさんとの出会い
 発災から9日目に曽根さんの両親は避難を決意した。避難したのは新潟県のある町だった。当時その町の町長や新潟県知事が避難の受け入れを表明していたが、避難先の決め手となったのは「風向き」だった。父親は事故直後から風向きに関する気象情報を調べていた。当時、政府がSPEEDI(放射能拡散予測システム)のデータを公表していなかったので、ドイツの気象庁が出しているデータを見て、関東方面に放射能が流れているのを知った。そこで親戚がいる関東ではなくて、全く伝手のない新潟に避難することを決めたという。
 避難後、曽根さんにとって大きな転機となったのは女優の木内みどりさんとの出会いだった。木内さんは福島原発事故後、「自分は以前から原発の危険性を知っていたのに、声に出してこなかった。事故には自分にも責任がある」という思いから、反原発の集会・デモなどで積極的に活動していた。それを知っていた曽根さんの母親は、避難先で開催されたロックフェスティバルにゲスト出演していた木内さんを訪ねていった。「声を上げてくださってありがとうございます」とお礼の言葉を述べるためだった。その時いっしょにいた俊太郎さんに木内さんが声をかけた。「夏休み長いでしょう、もしひまだったらうちに遊びに来ない?」
 11歳の曽根さんは代々木上原にある木内さんの自宅を訪ねるためにひとりで上京した。木内さんと過ごす中で、「自分が行動して発言することの大事さ」を教わったという。曽根さんは「これまでは聞く側の人間だったけど、伝える側の人間になろう」と思うようになった。残念ながら木内みどりさんは2019年11月18日に亡くなった。

高校生平和大使に
 そして出会ったのが高校生平和大使だった。1998年、インドとパキスタンが核実験を行ったとき、被爆地ヒロシマ・ナガサキの声を世界へ届けるために、長崎の女子高校生2人がニューヨークの国連本部に派遣された。その後、毎年、全国から高校生が選出されてジュネーブの国連欧州本部に派遣されている。2021年、曽根さんは24代の高校生平和大使に選出された。その主な活動に「高校生1万人署名活動」がある。これは、平和大使に選ばれなかった子どもたちが、「自分たちも何かしたい」「署名を集めて国連に送ろう」ということで始まった。それが今は高校生大使の主要な活動の一つとなっている。曽根さんが通っていた六日町高校では学校側が「校内で署名活動をしていいよ」と認めてくれた。

「原発ゼロ」を実現した台湾 日本との違い
 昨年5月、曽根さんはノー・ニュークス・アジア・フォーラム(NNAF) in 台湾に参加した。参加国は、フィリピン、台湾、韓国、日本、スイス、インドなど。
台湾では1978年に原発が運転開始。当時の台湾は戒厳令下だったので、反対の声を上げることは困難だった。しかし1980年代に戒厳令が終了すると反原発運動が急速に拡大し、市民や環境団体がデモや抗議を実施した。そして2011年、福島原発事故を受けて、脱原発(非核家圏)方針へと政策転換が行われた。2025年5月17日、最後の原子力発電所・第3原発が停止して、台湾は「原発ゼロ」を達成した。
 NNAFの若者交流会で曽根さんは、各国で活動している若者たちと交流した。日本での原発事故のとらえ方は「過去に起きたこと」だが、外国では違っていた。彼らは、「自国の原発が事故を起こして、将来、日本のような被害を受けるかもしれない」と「未来のこと」としてとらえていた。それは曽根さんにとって「大きな気づき」だった。
 なぜ日本ではそのようなとらえ方ができないのか。「福島事故の記憶の風化」と言われるが、なぜ「風化」が起きるのか。「みんな別に無関心というわけじゃなくて、自分の思いとか考えとか、自分の感じていることを語る場所がないから、自分の意見を言語として発することができないからではないか」と曽根さんは強く感じている。
 新潟では、世界最大級の出力を誇る柏崎刈羽原子力発電所の6号機が今年に再起動し、 4月16日から営業運転を再開した。これをめぐって県民投票の条例制定を求める署名が14万筆超も集まったが、新潟県の花角知事は「県議会に問う」とし、自民党が圧倒的多数を占めている県議会で否決された。
 台湾では国民投票が行われ、「原発ゼロ」になり、社会全体で議論している。新潟では原発が再び稼働し、その判断は知事や議会など県政の中枢にいる人たちに委ねられて、住民投票もなかった。「これが台湾と日本の大きな違いだと思う」と曽根さん。確かに、日本では「国策に市民が声を上げても止められない」という風潮があるが、それは台湾も共通している。台湾が脱原発を実現できたのは、政権が方針転換をしたからだが、その根底には40年を超えて続けられてきた力強い市民運動があった。だから「日本も諦めずに市民運動を続けていくしかない」と感じたという。

言い訳は通用しない
 曽根さんは、「若者の対話の場や自分の意見を発信できる場所を作りたい」という。「NNAFで出会った脱原発という志を持った仲間たちとの継続的な連帯が必要だ」とも。
 ノーと言わなければ、イエスと判断されてしまう世の中では、「おかしいことにはおかしいということが大事だ」と。「ビリョクだけどムリョクじゃない」、高校生平和大使のスローガンだ。「それはどんな活動にも共通する。主権は私たちにあって、私たちが決めることができるはず」だと。もしまた原発事故が起こったら、「国から押し付けられたからという言い訳は通用しない。責任から逃れられる人は一人もいない」、これが曽根さんの伝えたかったメッセージだ。
 この日は高校生・大学生はじめ、原発に関する学習会には初めてという人など多彩で幅広い世代が参加した。大学生の一人が「今日は曽根さんの話を聞けて良かった。原発に関心を持っている人は多いと思うので、もっとこういう機会があれば」と話していたのが印象的だった。(山本 康)