
沖縄県名護市のキャンプシュワブは、アメリカ海兵隊の基地だ。キャンプシュワブ前のテントから、軍用トラックに乗った海兵隊員が射撃訓練に向かう様子や、自家用車に乗って出かけてゆく姿を見かける。私たちは、疑いもなく彼らをアメリカ人であり、映画『フルメタリック・ジャケット』や『プラトーン』などで描かれる兵隊と同じ海兵隊員だと思っている。
アメリカの戦争の主役は「陸軍の歩兵ではなく、海兵隊だ」と思っているだろう。しかし、その成り立ちや、どういう戦闘集団なのかということはあまり考えてこなかったのではないか。中公新書に『アメリカ海兵隊』(野中郁次郎著、900円+税)という本がある。この本を参考に、アメリカ海兵隊について述べてみたい。

1853年7月8日、アメリカ東インド艦隊のペリーが浦賀に来航した時に、海兵隊員約200名がアメリカの使者と共に浦賀に上陸した。翌1854年、アメリカ大統領の親書を携えたペリー提督が江戸に入った時にも、海兵隊員が随行している。日本人が初めて見たアメリカの兵隊が、海兵隊員だったというのは、なんという皮肉か。
陸上部隊や飛行隊も
アメリカに海兵隊がつくられたのは1775年。「本国」だったイギリスの海兵隊に模して創設された。当初の目的は「船の安全維持」であり、木造帆船に乗り込んでいる荒くれ水夫の監視だった。船内の警察官の役目を負っていた。
その後、船が木造帆船から鋼鉄製の蒸気船になり、アメリカの海外進出が本格化していくと、海兵隊の任務は外国への介入と、前進基地の防御となっていく。
第1次世界大戦に連合国の一員として参戦したアメリカは、ドイツ軍と戦っていたフランス軍を支援するために、海兵隊を西部戦線のベローの森に投入し、ドイツ軍から奪還した。
第1次世界大戦では、戦車と飛行機という新しい兵器が登場する。海兵隊も飛行隊を創設し、ドイツ潜水艦の攻撃に備える哨戒活動や陸戦支援の任務を遂行した。大戦終了時に海兵飛行団は、将校282人、兵士2180人の規模になっていた。兵隊全体の数も、1万人から7万5千人に膨れ上がった。
西太平洋を巡る攻防
第1次世界大戦に連合国側で参戦した日本は、西部太平洋のマリアナ、カロリン、マーシャル諸島を委任統治した。当時から日本を仮想敵国としてきたアメリカにとっては、大問題だった。
こうした事態に、海兵隊の使命を変革しようとする人たちがいた。なかでも、海兵幕僚のアール・H・エリス少佐である。エリス少佐は、「自我自賛」の東条英機のようではなかった。彼は、日米開戦となれば、「アメリカ艦隊は太平洋を渡らなければならない。そのためには、日本の保有する前進基地を奪取する必要がある」と考えた。エリス少佐の研究論文をもとに、海兵隊司令官ジョン・A・ルジューンにより、1921年(太平洋戦争が始まる20年も前に!)、7月23日に「作戦計画72D」として承認され、1924年には「オレンジ・プラン」として知られる海兵隊の対日作戦の一つの基礎になった。
エリス少佐によれば、海兵隊の新たな使命は「攻撃的な水陸両用作戦である」とされた。海兵隊は、もはや前進基地の「防御」のみならず、敵の保有する前進基地の「奪取」を使命とすることになった。

真珠湾から太平洋全域へ
1941年12月8日、日本軍のハワイ奇襲攻撃によって太平洋戦争が始まった。日本軍は瞬く間にグアム、香港、フィリッピン、シンガポール、オランダ領東インドを占領し、1942年1月にはラバウルに進出、3月にブーゲンビル、ソロモン諸島にも侵攻した。
しかし!「飛んで火にいる夏の虫の日本」…。日米開戦から6か月後の1942年6月5日から7日にかけ戦われたミッドウエー海戦、日本海軍は空母「赤城、加賀、蒼龍、飛竜」4隻を失うなど大敗を喫した。
太平洋上の小島に展開していた日本軍は、丸裸の状態になる。アメリカは、エリス少佐の戦略の通りの戦い進めていった。まずは、日本軍が飛行場を建設していたガダルカナル島を攻撃する。1942年8月7日、ガダルカナル島に艦砲射撃を開始、続いて海兵隊員が上陸用舟艇でガダルカナル島に向かった。8月21日、一木清直大佐率いる一木支隊2000人は全滅した。日本軍は、ガダルカナル島奪回作戦を行なう。しかし制空権、制海権をアメリカに握られ、奪回はかなわず、戦死・戦病死、行方不明合わせ2万1200人の犠牲者を出した。

アメリカ側も、戦死1000人、負傷4245人を出したが、「大和魂と精神力」だけの日本軍と違い、効果的な作戦を研究し実行した。

タラワを巡る攻防
1943年に入ると、アメリカ軍は中部太平洋に浮かぶマキン、タラワの攻略戦を展開する。マキンは歩兵第27師団が、タワラを第2海兵師団が攻撃することになる。タラワのペティオには日本の司令部と飛行場があり、約4800人の日本軍が駐留していた。ハワイと米本土、ニュージーランド、オーストラリアに至る、連合軍の生命線を押さえる位置にあった。
タラワは、ガダルカナルと違い環礁だった。海が浅く上陸用舟艇が座礁してしまう、海兵隊員は海に浸かって徒歩上陸を余儀なくされ、日本軍の反撃にされかねない。米軍は、本来は輸送用の上陸用装軌艇を使用することにした。アメリカ軍は、合理的だった。(注:装軌=キャタピラー)
マキン、タラワへの攻撃は、1943年11月20日と決定された。日本軍は猛烈に反撃したが、シャーマン戦車、自動ライフル、火炎放射器、突撃工兵を使ったアメリカ軍の攻撃に屈し、11月23日の「万歳突撃」を最後に、組織的戦闘は終わる。日本軍の戦死者4690人、アメリカ軍の戦死者は990人である。(こじま・みちお)(つづく)
