
事務所を占拠
二人の障がい児が死体で発見された甲山事件で、1977年、遺族が甲山福祉センターを相手取って管理責任を追及した裁判。そこにおいて、被告側は責任を回避して、居直った。
「障がい者は廃人であり、社会的価値がない以上、親による死んだ子どもたちの賠償請求は無意味である」と、甲山学園理事長は裁判で証言した。これに全国の障がい者が怒った。敢然と起ち上がった40人の障がい者たちは甲山福祉センターの2階の事務所まで突入し、「差別者許すまじ」と糞尿を投げつけ、座り込んで占拠した。
半世紀前の事で、このとき、どういう支援者・介護者の力を借りて、この肉弾戦をやったのか、記憶があいまいだが、占拠から随分時間が経ってから機動隊が導入され、障がい者たちは排除されていった。この闘いの中心は脳性まひ者で構成された「関西青い芝の会」だった。
職員である私たちはどう対応すれば良いか、オロオロするだけであったが、占拠中の女性障がい者のトイレ介助などを行った。私の仕事場の外窓には大量の糞便がなすりつけてあり、その後それを誰も清掃することなく、障がい者たちの糾弾の証を撤去していいものかと悩んだりして、そのまま放置していた。雨風に打たれて次第に剥がれ、風化していったが、誰も「洗い流せ」とは言わなかった。半年から一年は汚物をながめながらの勤務だった。
殺されて当然か!
1970年、横浜市で母親が障がいをもった我が子を殺すという事件があり、母親に同情した人びとによる減刑嘆願運動がマスコミも巻き込んで行われた。そういった世間に対して、「我々は在ってはならない存在なのか」「殺されても当然なのか」「殺した母親に対する同情はあっても、殺された障がい児への同情はないのか!」と「青い芝の会」を中心とした抗議行動が行われた。1973年、バラバラだった組織が統一され、「全国青い芝の会総連合会」が結成された。1977年には川崎市で車椅子の単独乗車を拒否する路線バスに抗議し、バスターミナルを車いすで占拠。バス28台に乗り込み、6時間半にわたって運行を混乱させた。
70年代は「青い芝の会」が一番熱い闘いを組織した時代であり、甲山福祉センターへの抗議行動もこの流れのなかにあった。障がい者運動だけではない。全国の大学で吹き荒れた70年安保闘争以降、72年沖縄本土復帰闘争、74年狭山差別裁判寺尾高裁判決と日比谷10万人決起。75年サイゴン陥落とベトナム解放戦争の勝利。そして76年全国障害者解放運動連絡会議の結成(障がい種別を超えた初めての当事者組織)、1979年の養護学校義務化反対闘争へと続いていく。
しかしながら、それから半世紀たった2016年、相模原市「津久井やまゆり園」で45人の障がい者殺傷事件を許してしまったことが悔しくて無念でならない。犯人の植松は「障がい者は無価値どころか社会的に有害である」と公言する確信犯だった。
えん罪の構造
甲山事件の刑事裁判に戻るが、この事件は警察の障がい者差別がなければ数年で解決し、Sさんたちがえん罪で25年間も苦しむことはなかった。実際に真相に近い証言を園児たちが行っていたのだ。しかし警察は知的障がいがある園児の言うことなどは信頼できないとその人格を認めず、その声に真剣に耳を貸すこともなく、介護労働者を焦点にしたデッチ上げに終始したのだ。 (つづく)
