
1945年8月6日の早朝、広島市近郊にある旧川内村温井(ぬくい=現広島市安佐南区)から、男たちが広島市に向かった。その日、勤労奉仕に出た「義勇隊」の191人。彼らは1人残らず、全滅した。1学年321人が全滅した広島2中1年生とともに、川内村の義勇隊は「原爆とは、放射能とは何か」を、いまも伝える。
輪番で、その日の動員に当たった彼らは、朝から広島市内の家屋疎開作業に携わる。午前8時15分、原子爆弾が頭上に炸裂した。焼け爛れた7人が、川舟や大八車に乗せられ帰村したのみ。残る184名はいまも「行方不明」のままである。かろうじて帰村した7人も、日をおかず全員が死亡する。温井部落は、無惨だった。村中の、夫、父親、息子たちが一度に亡くなり、1日にして75人の女性たちが寡婦となった。
この本は原爆から30年余の後、広島で農業関係の新聞に携わっていた編者が、寡婦となり農業を支え、子どもを育てながら生きた女性たちの「戦後」を、丹念に聞きとった記録である。「あの日、出て行ったきり」帰ってこなかった夫、非業の死をとげた息子たちを語る証言集であり、その後の苛酷な暮らしを生きた彼女たちの女性史でもある。
1982年第1刷発行。30代の終わりころだったか、たまたま三宮の書店で買い求め、帰りの電車で何気なく読み始めたところ、いきなり涙が出てとまらなかった。広島の田舎で育った私は、その年代のおばあさんたちが話す広島弁の意味合い、機微がよくわかる。その後絶版になっていたが、福島原発の大事故をうけてだろうか再版された。読み返してみると、やはり10頁もいかない間に胸がこみ上げ、先へすすめない。老いた農婦たちが広島の方言で語る言葉には、鋭い真実が満ちている。それを真摯にうけとめる想像力があったら、今回の大事故という事態には至らなかったのではないかと思えてならない。かつて大学闘争のバリケードの壁に、「想像力は力である」という言葉が書かれてあった。
重傷を負い、ようやく村まで運ばれた7人。「主人は戻ってこん。さがしにいくけぇ…というたが、乳飲み子を置いていけん。背負うて出ましたよのう。川べりには、大勢の人が折り重なって死んどられました。黒焦げの死体が浮き沈み、そりゃあもう地獄じゃった。死体という死体をのぞいて歩いた」「『死体じゃが、見つかりました』という近所の人が、うらやましゅうてならなんだ」「6日の朝、主人は家を出たきり、戻ってこなんだ。あのとき戻ってこんのじゃけぇ、いまも戻ってこん。形も何もわからん。くどくど言やぁ、男どもほしいのか(注)と思われるが、話どもせにゃ耐えてはこれなんだ」

「水をくれ、水をくれと言うとりました。体中から臭いにおいの膿が、そりゃあ、ひどいにおいでがんした。8日の晩からおかしゅうなり(容態が変わり)…。こりゃもうつまらん(どうしようもない)。主人は9日の朝から馬を追い始めました。『チョッ、ホイ、ホイ。チョッ、ホイ、ホイ…』。馬といっしょに早よう家に戻りたかったんでがんすよのう。居りづらいほど、むごうがんした」「(遺体は)真っ裸で、膚はずるむけじゃった。臭いにおいがして…。おばあさんとお経をとなえ寝ようとしたとき、80歳のおばあさんが『わしが辰と寝てやろう、最後のことじゃけぇ』と言われた。臭かったじゃろうに、おばあさんは一晩中コトリともいわさず、主人の死体と寝てくれました。親子の愛情の深いことに頭が下がりました」
「畑のもの(作物)は、主人が死のうが、わたしが泣こうが待っちゃくれません。水や肥料をやらにゃ枯れてしまう。子どもを連れて(市内へ糞尿を集めに行く)肥とりを始めたんでがんす」「働きづめに働きましたのー。嫁入りのときにクリームを持ってきたが、(80歳の、いまも)まだ持っとりますよ。つける暇はなかったもんのー」という、苦難の生きざまが行間に詰まっている。
川内村義勇隊の碑は平和公園西側、本川川岸の広島2中慰霊碑の北に並び建つ。一読をお薦めしたい。
(注)「男ども…」という広島弁は、「男たち」ではなく「男でも…」という意味合い。「男がほしいのか」という、やや侮蔑的ニュアンスで使われている。 (竹田雅博)
