
「憲法に自衛隊を書き込みたい」
「憲法に、なぜ自衛隊を書いちゃいけないのですか」(高市早苗・首相)
国家権力は、個々の人間の内面を侵してはならない。もしも私たちが、内心いかに反国家的なことや秩序紊乱的なことを夢想していても、「国家」がそこに踏み込んではならない。「国家」は、私たちの想像力に触ってはいけない。憲法は「国家」が市民を縛るものではなく、市民が「国家」を統御し、縛るためのものではないか。憲法の大きな目的の一つは、市民に「国家」からの自由を保障することではないか。
9条、13条、19条…
これまで、憲法常識を無意識に漠然と捉え、脳内常識化をしていた。それは、前文や第9条(戦争の放棄、戦力の不保持・交戦権の否認)であり、第13条(個人の尊重)、第19条(思想および良心の自由)などであった。私が持ち続けたいと思う自由の領域とは、よくよく考えてみれば自分自身の領域が侵されないための防波堤であったのかもしれない。これも無意識に、である。
しかしながら、この自由を侵されないための防波堤は決壊してしまったか、あるいは今まさに決壊しかかっている。9条、13条、19条だけではない。前文しかり、第18条(奴隷的拘束、苦役からの自由)、第20条(信教の自由、国の宗教活動の禁止)、第21条(集会・結社・表現の自由、通信の秘密)、第25条(国民の生存権、国の社会保障的義務)、第28条(勤労者の団結権・団体交渉権および団体行動権)、第34条(抑留・拘禁に対する保障、拘禁理由の開示)、第36条(拷問および残虐な刑罰の禁止)、第37条(刑事被告人の諸権利)、第38条(供述の不強要、自白の証拠能力)、第98条(憲法の最高法規性)、第99条(憲法の尊重・擁護義務)といった、堤防の要所、要所が破壊されようとしている。
私たちは、激しい濁流の渦に巻き込まれながら、日々にせまる自由の領域の狭まりを感じている。
「国民の義務」と規定しているのは、26条(親が子どもに教育を受けさせる義務)、27条(勤労の義務)、30条(納税の義務)の三つだけである。
戦前の大日本国憲法では、それに加えて「兵役の義務」を謳っていた。私たちの国では、80数年前まで国民(戦前は「帝国臣民」)に、敵国民・敵国兵士と戦い、その人たちを殺傷することを「義務」として命じてきたのである。
安倍晋三という総理大臣
軍備拡張は当然か。安倍晋三という総理大臣がいたね、高市さんよ。いま、ロシアのウクライナ侵攻、中国の軍事力増強に絡め、防衛費・予算の過去最高の増額を打ち出している。「敵基地攻撃能力」を掲げ、「攻撃対象を基地に限定する必要はない。相手の中枢を攻撃することも含むべきだ」と言う。平和憲法を足蹴にし、日本の「戦争までの距離」を一挙に縮めている。
じつのところ高市政権は、9条など“屁のかっぱ”なのだ。完全に足蹴にしている。それどころか、憲法そのものを「戦争のできる条文」に改悪しようとしている。中国、台湾情勢、北朝鮮などを念頭に「敵基地」への先制攻撃策定に、余念がない。
「9条を語らない」のか
「非核3原則」など事実上死文化しているが、はっきりと「戦術核保有」や「核の共有」を唱える輩まで現われている。かつては、あれほど護憲を叫んでいた者たちは、どうした。9条をさっぱり語らなくなったのではないか。
夫や孫を殺され、家も破壊された老婆の、喉を絞り込むような泣き声がテレビから流れてくる。「なぜこんな目に遭わなければならないの? わたしが、どんな悪いことをしたというの」
そのニュースが終われば、お笑いとゲーム番組だ。なにかが病んでいる。イスラエルで、ガザで、ウクライナで、イランで、スーダンで、なぶり殺しのような酷い状況が制止もされずに、侵攻され拡大している。破壊と殺戮が克明に報道をされながら、「他国のできごとだ」として切り捨てられていく。なんだ。それを止めさせるには、余りにも脆
弱極まりない理性、そのものなのだ。
ウクライナ情勢のダイナミズムが、軍需産業を勢いづけている。それだけではない。戦争の尻馬に乗り、憲法改定を求める者どもの声が大きくなり、「9条護憲」は、なにかしら旗色が悪い。「軍備拡張は当然」という空気が醸し出されている。「中国、台湾情勢」にのっかり、高市政権は「台湾有事は存立危機事態」とし、「強力な軍備の必要性」「戦争への自前の備えと覚悟」を説いている。
「世界が事もなげに崩れてゆく」 私は格別に憲法を賛美、礼賛しているわけではない。国家の法は、国家の法にすぎない。それを、じつに軽く踏みにじるのも、法をつくりたがる国家である。国家そのものを、訝らざるをえない。
個としての存在
「日本」と「日本人」の同一性の回復が、やたらと強圧的に求められている(個人情報保護法、国旗国歌法、スパイ防止法、外国代理人登録制度など)。それらが、菌糸のように絡まり合い強まり、強圧的に求められている。個人が保持すべき内面の自由の領域までが、浸食されているようだ。国家が、個人の有り様まで手を伸ばし、絡めとろうとしている。それが年々、著しくなっている。個として存在すること自体が、怪しくなってきた。
現行憲法には、緊急事態条項(国家緊急権)がない。緊急事態条項は、戦争や大災害など非常事態下では、国会の審議を経ることなく内閣に権限を集中させ、人権の制限を可能とするものである。「国家緊急権」とは、通常、戦争、災害、内乱といった緊急事態が生じた場合に、国家が「戒厳」などの非常事態をとることができ、市民の権利を制約することも許されるという、換言すれば市民への国家暴力を、法政上認めるというものだ。事実上「自由の制限」を導くものである。(嘉直)(つづく)
